主の教義 #2

By Emanuel Swedenborg

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2. ここでとりわけ〈みことば〉というと、モーセ、預言者、福音書記者たちによって著された 〈みことば〉の意味になります。その〈みことば〉こそ、天使たちにとっての全英知、人間にとっての全霊的理知の源になっている神の真理そのものです。なおこの〈みことば〉は、この世の人間にも、天界の天使にも存在します。この世の人間にとっては自然的〈みことば〉、天界ではそれが霊的〈みことば〉になります。そして神の真理であるとは、神性の発出であるということです。したがって、〈みことば〉は主に起因するだけでなく、主ご自身であることになります。〈みことば〉は主ご自身ですから、〈みことば〉の個々全体は、ただ主ご自身についてしか記されていません。イザヤ書からマラキ書にいたるまで、主について記されていない部分はありません。あるいは対立する意味では、主に歯向かうようなものとして、記されています。

以上について、いままでだれにも知られていませんでしたが、それを知れば、だれでも以上が見えてきます。〈みことば〉を読みつつ考えてみると、〈みことば〉は自然的意味だけでなく、霊的意味もあるということです。登場人物や場所の名前も、その意味では、主にかんする何かを表します。それと同時に、主に根差し、天界や教会の何か、あるいはそれに対立する何かを表わします。

〈みことば〉の個々全体が主にかんするものであり、〈みことば〉は神の真理である以上、主ご自身です。それで、「〈みことば〉は肉となってわれわれのうちに宿った。そしてわたしたちはその方の栄光を見た」と言われた理由が分かります。また、「光のあるあいだに、光の子となるため光を信じなさい。わたしは光としてこの世に来た。わたしを信じる者は闇の中に止まることがない」とあります。光とは神の真理のことですから、〈みことば〉のことでもあります。したがって今日でも、ただ主にのみ向かう人は、〈みことば〉を読んで主に向かって祈れば、〈みことば〉のうちで照らされるわけです。

  
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