ステップ _9713: The essential importance of self‑compulsion

     

この節の研究

Question to Consider:

What are some areas of life in which we tend to leave too much up to the Lord? What are some in which we tend to take too much on ourselves?


天界の秘義#1937

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作者: エマニュエル・スウェデンボルグ

1937. 「その手のもとで自分を低くしなさい」とは、かの女の権限の下にあるように自己強制するという意味で、これは説明を要しません。「自分を低くする」とは、原語で「悩ます」という意味の単語で表現されています。「自分自身を悩ます」とは、その内的意味では「自己強制する」になることは、〈みことば〉の多くの箇所から確かめられます。その意味について、これから述べていきます。

善を行うにも、主のご命令に従うにも、真理を語るにも、自己強制が必要です。それは女主人の手の下に「自分を低くする」ことであり、神の善や真理の権限の下に身を投じることでもあります。以上は手短に説明するには、あまりにも多くの秘義が含まれます。

② ある霊がいました。かれらは、この世に生きていたとき、善はすべて主によるもので、人は自力で何の善も行うことができないと聞き、そのため自己強制することは何もなく、なるがまま身をまかせ、努力することはすべて不法であるという原則をもって生きていました。自分の意志を奮起させるためには、直接の流入があると期待していたので、善を行うため自己強制することはありません。悪念が心に入っても、内部からの阻止を感じないなら、これを許されたものと考えて、なるがままにしていました。

しかしこのような人たちは、原則がないのと同じです。そこには決意するものがありません。したがって無益な人たちの仲間となり、悪人からも善人からも同じように引っ張られますが、悪人から引っ張られるほうが多くなります。

③ それにたいし、悪や偽りに対抗するよう自己強制した人もいました。最初かれらは、自力すなわち自分固有の力で動いていると思っていましたが、後になって、自分の努力は、それがほんの僅かな努力であっても、主によるものであることを、照らされて悟るようになりました。かれらは来世で、悪霊たちに引っ張られることはなく、幸福な人たちの仲間になっています。

人は善をなし、真理を語るために、自己強制の必要があることが分かります。こうして人は主から、天的エゴをいただくわけですが、それには秘義が隠されています。人の天的エゴは、本人の思考上の努力の中で形成されていきます。そこには、自らを介さないではいられないという見かけがあり、たとえ見かけでも、自らを介して、自己強制しなかったら、天的エゴを獲得することはできません。

④ そこで、善にたいする自己強制は、すべて自由な行為であることが分かります。自己強制の最中に、自由は感じられなくても、それでも自由は内在しています。例えば、ある目的のために死の危険を賭(と)す場合とか、健康のために肉体的苦痛を耐えようとする場合がそうです。危険や苦痛の最中にある間は、自発性や選択の自由は感じられないでしょう。たとえそうであっても、そこには意志があり、自由があります。

善にたいして自己強制するとは、そのようなことです。心の中には、自己強制の理由と根拠になる意志があり、自由があります。つまり主が命じられたことに従うためであり、死後の自分の魂が救われるためです。その奥底には、もっと深いものがあって、人が気づいていませんが、それは主のみ国のためであり、主ご自身のためでもあります。

⑤ これが当てはまるのは、何よりも試練・誘惑のときです。人は悪霊が注入しひけらかす悪と偽りに対抗して、自己強制します。そのとき人は、誘惑の状態にないときより、ずっと自由です。もちろん誘惑の最中にはそれを感じません。本人は心の内部では自由があり、その自由にもとづいて、攻撃してくる悪の力や強さに対決できるほどになり、悪に打ち勝ちたいと思います。

この自由は、主からいただくものです。主はその自由を人の良心に浸透させ、それによって、本人があたかも自力でやるかのようにして、悪に打ち勝つようにしてくださいます。

このような自由を通して、人は、主が善を働かせ得るようなエゴをいただきます。こうして、自由に獲得したエゴ、つまり自由にいただいたエゴなくしては、だれ一人自己改革ができません。なぜなら良心という新しい意志をいただくことは出来ないからです。この自由こそ、主から流入してくる善と真理の場そのものです。したがって、試練・誘惑のとき、意志と自由にもとづいて抵抗しない人は、屈服してしまいます。

⑥ あらゆる自由の中にこそ、人の〈いのち〉があります。愛こそ人の〈いのち〉です。人が何をするにも、愛から行えば、自分にとって自由であるように映ります。人が善を行うために、悪と偽りに対抗して自己強制するとき、そのような自由の中にあり、そこに天的愛があります。その愛は主が浸透させてくださるもので、その愛にもとづいて、人の天的エゴが創造されます。だからこそ、それがたとえ人のものでなくても、人のもののように見えることを主は望まれます。

この天的エゴは、肉体の〈いのち〉にある間、見かけ上の強制を通して、いただくもので、来世では、それを数え切れない喜びと幸福で、主が満たしてくださいます。しかもその喜びと幸福は、一つの真理のもとに、段階的に明らかになり、確固とされていきます。その真理とは、自己強制と言っても、実際は自己からでなく、人の意志の最小限の努力を含め、主によるものであったという真理です。

自力のように見える理由は、主が人にたいし、本人のものとして、新しい意志を与えられるおつもりだからです。主は、ご自身のものである天的なものを、実際は人のものでなくても、各人の中にあるものとして、分け与えることを望まれます。天使たちは、このようなエゴの中にいます。そしてすべての善と真理は主からくるという真理を弁えていれば、それだけその天的エゴの喜びと幸福の中にいます。

⑦ それにたいして、善や真理をすべて軽視したり、拒否したりする場合、自分の欲情や詭弁的論理に反対するものは何も信じようとしませんから、自己強制はできません。したがって、このような良心のエゴ、すなわち新しい意志をいただくことができません。

自己強制とは、強制されることではありません。それは以上から明らかになります。強制されることからは、何の善も生まれません。人が他人から善をするように強制されたとしても、本人にとっては、身に覚えのない自由からの自己強制になります。また主は、だれをも強制されません。

ここで普遍的法則が生まれます。すなわち善も真理も、すべて自由の中に植え付けられます。そうでなければ、善を受け入れ育む土にはなりません。発芽生長が可能な土ではないからです。