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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #2576

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2576. 「見よ、これはあなたと、あなたの同伴者全員と・・・眼を覆うためです」とは、合理的真理は、霊的真理をおおう覆いであり、衣服のようなものであることを言います。これはやがて後述する「覆い1」の意味からと、「眼」が、〈みことば〉の多くの箇所に出てくるので明らかなように、理知を意味すると同時に、「見る」が理解することを意味するためです(2150,2325節)。本節の一語一語には、内的意味なくして分からないような秘義がある事実は、だれもが認めるでしょう。

「銀千シケルを与えました」とは、夫にたいしてでなく、「あなたの兄」となっています。またそれが「眼を覆うもの」、「あなたの同伴者全員」、および「そのすべてにたいし」、「こうしてかの女の正しさは認められます」となっています。

文字上の意味から、歴史上多くの推量も引き出せます。ただしそれでは、万事〈みことば〉にあるような霊的意味はなく、まして神的なものでもありません。

② 合理的真理は、霊的真理にたいして、覆いか衣服のようなものです。人の内奥部にあるものは本人の霊魂にかかわるもの、人の外部にあるものは本人の肉体にかかわるものです。人の内奥部は、諸善と諸真理があり、霊魂はそこから〈いのち〉を得ています。そうでなければ、霊魂は霊魂でなくなります。それで、より外部にあるものは、霊魂から〈いのち〉を引き出しており、外部のすべては、肉体に匹敵し、同様に、覆いまたは衣服に匹敵します。

特に、来世で見えてくるので、はっきりします。天使たちの目前に現われる場合、より内部のものは顔から輝き出ます。そしてより外部のものは、身体とか衣服によって表象されます。したがって、だれでもその着ているものから、正体が分かると言えます。なぜなら、実体が現実のものであれば、その本質は〈かたち〉であらわれるからです,。

〈みことば〉に出てくる主の墓所では、天使の容貌や衣服などが見えました(マタイ 28:3マルコ 16:5)。み座のまわりの二十四人の長老の場合もそうです(黙示録 4:4、他)。それは天使たちだけでなく、〈みことば〉に出てくるものは、無魂のものを含めて全部そうです。その外部は覆いか衣服のようで、周りを取り巻く契約の箱や、天幕などもそうです。

契約の箱の場合の「箱」は、その内奥部にある主ご自身を表象します。なぜなら、それが契約だからです。それにたいし、外部の「天幕」は、主のみ国を表象します。そこにある「覆い」、べール1や垂れ幕 は、個々全体が、主のみ国、すなわち三層の天界にある一層外部にある天的なもの・霊的なものを表象します。その〈かたち〉は、シナイ山でモーセに示されましたが(出エジプト 25:9,26:30)、それには以上のような由来があります。したがって聖性の由来は、金や銀、また彫像ではありません。

③ さて、合理的真理とは、霊的真理の覆いか衣服のようなものとの事実に焦点を置きます。モーセの書には、天幕の「覆い」、「垂れ幕」、入口の前面にあるベールについて記されています。そこにある「べール」が格別どのような意味をもつかです。また周りにある垂れ幕がどのような意味をもつかは、神なる主の慈しみに頼って、いずれ後述することにします。

そこには三つのべールがありました。一つは、聖所と至聖所を分けるべールでした。もう一つは、天幕の入口にあって、垂れ幕と呼ばれているものです。三番目は、前庭の門になる覆いでした。

④ 契約の箱の前にある第一番目のベールについては、モーセが次のように記しています。

「青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸でベールをつくり、精巧な作業で、それにケルビムを織り出しなさい。金で覆った四つのアカシヤ材の柱の上に置きなさい。その鉤(かぎ)は金製にしなさい。その柱を四つの銀の土台の上に据えなさい。そのベールを鉤に掛け、そのベールの内に契約の箱を納めなさい。そしてベールは、あなた方のため、聖所と至聖所とを分けるものである」(出エジプト 26:31-34,36:35,36)。

上掲で、ベールは、善と合理的真理にある最も卑近で内奥の外観を表象します。

その外観の中に、第三天界の天使たちがおり、「青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸」はその外観を描きます。赤色は、愛の善を表象し、白色は、その真理を表わ

します。同じように金と銀で柱を覆い、その柱から鉤と土台が造られますが、これも表象です。「色」も表象ですが、これについては、1042,1043,1053,1624節を参照してください。「金」は愛の善を表わし(113,1551,1552節)、「銀」は真理を表わします(1551,2048節)。

⑤ それで次のことも明らかです。

「神殿のベールが裂けた」(マタイ 27:51,マルコ 15:38,ルカ 23:45)。

主は、外観を取り壊して、神性そのものの中に入られました。これは同時に、ご自身の神人性の成立を通して、神性そのものへの扉を開かれたことになります。

⑥ もう一つのベール、すなわち天幕の入口にある垂れ幕については、モーセが次のように記しています。

「あなたは、天幕の入口のために、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、精巧に織った垂れ幕を作りなさい。あなたはその垂れ幕に、アカシヤ材の柱を五つ造り、これを金で覆い、その鉤を金で造り、その柱のために、青銅の土台を五つ鋳て造りなさい」(出エジプト 26:36,37; 36:37,38)。

垂れ幕が表象するのは、善と真理の外観です。この外観は、先にあるものより劣ったもの、外面的なもので、第二天界の天使たちのいる中間的な合理性を指します。外観的なものは、先のものとほとんど同じように描写されていますが、ただ違うのは、垂れ幕には、「五つの柱と五つの土台」があることで、この「五つ」は、比較的に少ないという意味があります。なぜなら外観は、それほど整合性がなく、内奥の第三天界の外観ほど、天界的ではないからです。

五の数が少ないという意味があることについては、649,1686節を参照してください。後者の場合の外観は、自然的なものを視野に置いているため、「土台は青銅で鋳て造る」ように命じられました。青銅は自然的善を表象・含意しています(425,1551節)。

⑦ 神殿の前庭の入口にある、第三の垂れ幕については、モーセが次のように記しています。

「庭の門用の垂れ幕は、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、精巧に織り、長さは二十キュビトにしなさい。その柱は四つ、その土台も四つ。庭の周囲の柱はみな銀でつなぎ、その鉤は銀、その土台は青銅にしなさい」(出エジプト 27:16,17; 38:18,19)。

この垂れ幕は、善と真理の外観としては、さらに下級で外面的なものを表わします。これは第一天界の天使たちがいる最下的合理性です。この外観は、より内部のものに相応し、同じように描写されていますが、違いは、柱が金で覆われておらず、銀でつながれ、鉤が銀製であることです。この柱は直接的に科学知に起源をもつ合理的真理を意味します。青銅の土台は、自然的善を示します。

以上のように、主のみ国の天的なもの、霊的なものを表象しないものは何もありません。しかも三層の天界にある天的なもの、霊的なものすべての模表として造られていることです。ベールにしても垂れ幕にしても、内奥部の周りや外にある肉体または衣服のような意味をもっています。

⑧ その他、ベールや垂れ幕、衣服や衣装は、比較的下級の真理を意味します。

それは〈みことば〉の多くの箇所で明らかになります。

「あなたの帆は、エジプト産のあや布であり、・・・あなたの垂れ幕はエリシャの島々から来る青と紫の布である」(エゼキエル 27:7)。

「ツロ」がテーマになっています。ツロとは天的なもの、霊的なものにかんする内的認識、およびその認識をもっている人々を表わします(1201節)。「エジプト産のあや布」とは、科学知を指します。「エジプト」は科学知です(1164,

1165,1186,1462節)。「垂れ幕はエリシャの島々から来る青と紫の布」とは、内的信心に相応する祭儀を表わします(1156節)。

⑨ 同じく、

「海の君たちは、みなその座から降り、朝服を取り去り、縫い取りの衣服を脱ぎ、恐れを身にまとい、地に座するであろう」(エゼキエル 26:16)。

これも「ツロ」をテーマにしています。「朝服」とか「縫い取りの衣服」とは、科学知に根ざした認識を指し、結局はより下級の真理を表わします。

⑩ 同じく、

「縫い取りした着物を着せ、皮の靴をはかせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。また飾り物であなたを飾り、腕輪をあなたの手にはめ、 鎖をあなたの首にかけ、・・・あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。・・・また縫い取りのある自分の衣をとって、かれらに着せた」(エゼキエル 16:10,11

16,18)。

上掲は、霊的教会である「エルサレム」に言及しています。むかしはどうであったか、後で倒錯した結果どうなったかを描きます。「縫い取りした着物」「細布」「絹」とは、より下級の霊的なもの、教義事項を表わします。

⑪ イザヤ書には、次のようにあります。

「万軍のエホバである主は、エルサレムとユダから、パンの支えと水の支えをすべて取り去られる。・・・その時、人はその父の家で、兄弟をつかまえて言う。あなたには衣服がある。わたしたちの司になってください、と。

・・・その日かれは言う。わたしはしばり役にはなりません。わたしの家にはパンも衣服もありません。わたしを立てて、民の司にしないでください、と。・・・主はシオンの娘らの頭を撃つ。・・・その日主は、かれらの美しい装身具を奪われる。すなわち、足首飾り、髪ひも、三日月形飾り、耳輪、 腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、ターバン、ストールを取り除かれる」(イザヤ 3:1,6,7,17-24)。

「エルサレム」とは霊的教会を示します。「ユダ」は天的教会です。「取り除かれるパンの支えと水の支え」とは、善と真理です。「司の衣服」とは、教義上の真理を指します。

列挙されている「シオンの娘たちの様々な衣装や装身具」は、取り去られる個々全体・種々様々な善と真理を指します。列挙されている一つ一つは、教会における特殊な何かを意味しないとしたら、〈みことば〉にはなりません。〈みことば〉の一語一語は神的です。「シオンの娘」についての修飾がありますが、これは教会に属する事柄が意味されています(2362節)。

⑫ 同じく、

「奮い立ち、奮い立って、力をまといなさい。シオンよ、栄光の衣をまといなさい。聖なる都エルサレムよ。無割礼の者、汚れた者は、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない」(イザヤ 52:1,2)。

「シオン」とは天的教会を指します。「エルサレム」とは霊的教会です。「栄光の衣」とは、信仰の聖なる者たちを指します。同じく、

「かれらの織物は衣服にならない。かれらの業で身をおおうことができない。

かれらの業は不義の業である」(イザヤ 59:6)。

「織物」とは衣服にならない真理の模造品です。「衣服」とは教義の信心の外部的な真理を言います。したがって、「仕事で身を覆うことができない」ことになります。

⑬ 同じく、

「わたしはエホバにあって、大いに喜び、わが魂はわが神にあって喜び躍る。

主はわたしに救いの衣を着せ、正義の上衣をまとわせられた」(イザヤ 61:10)。

「救いの衣」とは、信仰上の真理を指します。「正義の上衣」とは、仁愛の善を指します。ヨハネの書には、次のようにあります。

「サルデスには、その衣を汚さない人が少数いる。かれらは白い衣を着て、わたしと共に歩む。かれらは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、白い衣を着せられる」(黙示録 3:4,5)。

また同じく、

「目をさまし、裸で歩かないよう、その着物を身に着けている者は、さいわいである」(黙示録 16:15)。

また同じく、

「その座に、二十四人の長老が、白い衣を身にまとっているのを見た」(黙示録 4:4)。

「衣」とは衣服のことでないのは明らかです。真理に属する霊的なものです。

⑭ 同様に、主が代の終わりについて、「衣服を取るために戻るな」と言われました(マタイ 24:18マルコ 13:16)。この箇所での「衣服」は真理を表わします

(2454節参照)。また「婚礼の衣装を着ていない人」(マタイ 22:11,12)もそうです。マタイによる福音書には次のようにあります。

「何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々は、王の家にいる。」(マタイ 11:8,ルカ 7:25)。

これは教義や信心の外的なものでなく、内部にあるものを指します。したがって、次のように、付け加えられています。

「何のために出てきたのか。預言者を見るためか。あなたがたに言うが、預言者以上の者である」(マタイ 11:9)。

「預言者」とは、教義と信心の外部的なものを指します。

⑮ 「衣服(着物)」とは、あらゆる種類の真理を指します。そのためイスラエルの子らは、エジプト脱出のとき、「たがいに金銀を求め、それを息子・娘たちに着せた」(出エジプト 3:22; 12:35,36)とあります。また「複数の種類の織物や、交ぜ織りの糸でできた衣類を着てはならない」ことになっていました(レビ 19:19; 申命記 22:11)。

⑯ 「衣服の裾に房をつけ、そこに青ひもをつけ、その房を見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行いなさい」(民数記 15:38-40)とあります。

また昔は、衣服を裂くことをしました。ヨシュア 7:6士師記 11:35サムエル上 4:12サムエル下 1:2,11,12; 3:31; 13:30,31; 15:32列王上 21:27列王下 5:7,8; 6:30; 22:11,14,19イザヤ 36:22; 37:1にある通りです。衣服を裂くのは、教義や真理にたいする熱意を示します。それと同時に、衣服の装飾が示すようなものは、自分には何もないという謙遜を表わします。

⑰ またヤコブ、当時のイスラエルが預言したように、覆い、垂れ幕、衣服、着物には、そのような意味があります。

「かれはロバの子をぶどうの木につなぎ、その雌ロバの子を良質のぶどうの木につなぐ。かれはその衣服をぶどう酒で洗い、その着物をぶどうの血で洗う」(創世記 49:11)。

以上は何を意味するでしょう。「ぶどうの木、良質のぶどうの木、ロバ、雌ロバの子、ぶどう酒、ぶどうの血、衣服、着物」とは何かは、内的意味によらなければ、だれも理解できません。そこで「シロ」と呼ばれているのは、主であることは、明白です[訳注:創世記 49:10]。「ユダ」とは、主の天的神性を表象しているからです。「衣服はぶどう酒で洗われる」とか、「着物はぶどうの血で洗われる」とは、主の神化された合理性と自然性を意味します。

⑱ イザヤ書には、次のようにあります。

「ボズラから染め抜いた衣を着、エドムから来る者はだれか。かれは、装いも華やかに、数々の力をもって進んでくる。・・・なぜあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか。わたしはひとりで酒ぶねを踏んだからだ。民らのなかでわたしと共にいる者はなかった。・・・かれらの勝利はわが衣にふりかかり、わたしは、わが装いをことごとく汚した」(イザヤ 63:1-3)。

「衣」や「装い」は、主の人間性を意味します。試練・誘惑の戦いと勝利を通して、主はご自分固有の力で、それを神化されました。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだからだ。民らのなかでわたしと共にいる者はなかった」とは、そのことです。「イサクはエサウの着物のかおりをかぎ、祝福した」(創世記 27:27)にも同じような意味があります。

⑲ 主の神人性から出る聖性は、その衣であらわされます。ご変容にあたって、衣は光のように輝き、稲妻のように白かったとあります。マタイによると、

「イエスの姿は変わり、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ 17:2)。

ルカによると、

「イエスが祈っておられる間、み顔の様子が変わって、衣はまばゆいほど白く輝いた」(ルカ 9:29)。

マルコによると、

「イエスは変容されたとき、その衣は輝きを帯び、地上の布さらしでは白くできないほど、雪のように白くなった」(マルコ 9:3)。

アロンは、亜麻布でできたベールの中に入るときは、聖性の衣服を着けていました。これも同じ表象です(レビ 16:2,4)。聖職の聖性と同様、栄光と誉れとを表わす衣服もありました(出エジプト 28:2-終わり;39:1-終わり)。衣服で表象にならないものはありませんでした。

  
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天界の秘義 #6148

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6148. 「かれは、祭司の土地だけは、買い取らなかった」とは、自然性に根ざす内部のものが、善を受け入れる能力を手に入れたこと、しかもその能力が自分自身の力によるものであることを意味します。その根拠は次の通りです。

「かれ」とあるのは「ヨセフ」ですが、「ヨセフ」は、前述のように、内部のものを指します。「土地(土)」とは、6135-6137節で触れたように、真理の受け皿で、ここでは善を受け止める能力を指します。能力とは、受け止める可能性のことで、受け皿が受け皿になるため必要な可能性です。その能力は、善に由来します。換言すれば、善を介して、主に由来します。

主から、愛の善が流入として注がれなければ、真理にしても、善にしても、人は受け止める能力がありません。主から愛の善が流入として注がれ、その結果、人の内部で受け止めるよう、万事が整えられます。「エジプトに土地(土壌)があった」のは、自然性に根ざす〈善を受け止める能力〉を示します。「エジプト」とは、科学知の面からみた自然性を意味するからです(6142節)。

「祭司(職)」は、これから述べるように、善を意味します。「買い取らない」とは、そのような能力を、自分のものとして同化しないことという意味です。かつては、その受け皿もろとも、諸真理と真理の諸善を、自分のものとして同化しましたが、それは荒涼と養いがあってこそ起こったことです。なぜなら、当該の能力は、自分自身、つまり内部のものの力に依存したからです。

したがって、「祭司たちの土地だけは、買い取らなかった」とは、内部のものが自然性に根ざして、善を受け止める能力をみずから獲得したという意味になります。その能力は、自らのものだからです。

② 事情を説明すると、次の通りです。真理と善を受け止める能力が、人にあるとすれば、それは直接的に主からくるもので、その能力を獲得するため、人の力を借りることは、決してありません。ところで、善と真理を受け止める能力は、いつも人に備わっています。理性と意志は、その能力に根ざしています。

人が悪のほうに身を転じると、善や真理を受け止められません。その際、能力はあっても、思考や感覚に向かう入口が閉ざされています。そのようなわけで、人が悪に身を転じ、〈いのち〉と信仰の力を借りて、その悪に身を固めれば固めるほど、真理を見る能力、善を感じとる能力は、それだけ失われていきます。

真理と善を受け止める能力にたいして、人はまったく無力であることは、教会の教義からも知られています。信仰上の真理にしても、仁愛上の善にしても、人の力によるものは何もなく、主のみ力によるという教えです。人は、自分にあるそのような能力を根絶させることが可能なのです。

自然性に根ざす内部のものが、善を受け止める能力を自力で獲得したのは、その能力が自らに依存するためであるとは、どのような意味か、ここで明らかになります。「自然性に根ざす」とあるのは、主からの善の流入が、内部を通過して、主から、自然性にたいして注がれるからです。そこで受け止める能力を獲得したとき、流入が注がれます。受け止めが成立するのは、そのときです(5828節)。

③ 「祭司」は諸善を意味しますが、忘れてならないことは、主から発出するものには、善と真理という二つがあることです。「祭司」は〈神の善〉の表象、「王」は〈神の真理〉の表象でした。そのため「祭司たち」とは諸善を意味し、「王たち」は諸真理を意味します。主について述べるさいの祭司職や王職については、1728,2015,3670節を参照してください。

古代の表象的教会では、祭司職と王職の二つは、ひとりの人格の中で結ばれていました。主から発出する善と真理は、一体化していたからです。また天界における天使たちのもとでも、結ばれていました。

④ 古代教会で、以上の二つが結ばれたひとりの人格は、メルキゼデク、すなわち「正義の王」という名前の人でした。メルキゼデクは、アブラハムのもとに来ましたが、かれについては次のようにあります。

「サレムの王メルキゼデクは、パンとブドウ酒とを持ってきた。かれはいと高き神の祭司である。かれはアブラハムを祝福した」(創世記 14:18,19)。

メルキゼデクは、祭司と王の両面で、主を表象していました。かれは王であったと同時に祭司でしたし、アブラハムを祝福し、パンとブドウ酒を献じることが許されていました。パンとぶどう酒は、〈愛の善〉と〈信仰の真理〉両方のシンボルだったわけです。両方の面で主を表象していたことは、ダビデの書からも明らかです。

「エホバは、誓いを立てられた。エホバには、後悔はない。あなたは、メルキゼデクの位にしたがって、永遠にいたる祭司である」(詩篇 110:4)。

上掲は、主について言われています。「メルキゼデクの位にしたがって」とは、王と祭司であることです。つまり最高の意味で、そのお方から、〈神の善〉と〈神の真理〉が一つとなって発出することを意味します。

⑤ ヤコブの子孫のもとに、表象的教会が設立され、こうしてまた、一つのものとして主から発出する〈神の善〉と〈神の真理〉は、ひとりの人格の下に結ばれ、表象的に表わされました。

しかし当初、該当の民の行った戦いや偶像崇拝がもとで、その二つは分裂しました。民を支配したのは、指揮官 でしたが、後に、士師 になりました。聖なる儀式をつかさどっていた人は、祭司と呼ばれ、アロンの子孫、つまりレビ族出身者でした。しかしやがて、エリやサムエルの場合のように、二つのものがひとりの人格に統合されました。

しかしこの民のもとでは、偶像崇拝が支配的となったため、表象的教会 の成立は不可能となり、たんなる教会における表象物 になりました。その結果、二つは分裂を余儀なくされ、〈神の真理〉の面で主を表象するのが王であり、〈神の善〉の面で主を表象するのが祭司になりました。

これは民のわがままから出たことで、主の思し召しによって起こったことではありません。エホバがサムエルに言われた〈みことば〉から明らかです。

「民の声に従って、あなたに向かって言った事をすべて行いなさい。かれらはあなたを退けるのでなく、わたしがかれらの王にならないよう、わたしを退けるのである。・・・かれらに、王政の権利を認めてやりなさい」(サムエル上 8:7-終わり;12:19,20)。

⑥ 以上の二つは、分離されてはなりません。なぜなら〈神の善〉から切り離された〈神の真理〉は、人をみな断罪することになりますが、〈神の善〉に結ばれた〈神の真理〉は、人を救うからです。人が地獄の断罪を受けるとすれば、それは、〈神の真理〉によります。しかし〈神の善〉によって、地獄を逃れ、天界に挙げられます。

救いは、慈悲によるものです。つまりは、〈神の善〉によって救われます。人がその慈悲を拒否し、みずから〈神の善〉を排除し、〈神の真理〉の裁きに身をゆだねるとき、それが断罪につながります。「王」が〈神の真理〉を表象することについては、1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節を参照ください。

⑦ 「祭司」は、〈神の善〉の面から見た主を表象します。祭司が善を意味することは、アロンおよびレビ族を祭司職に認定した内的意味上の経緯から、すべて明らかです。大祭司だけが至聖所に入ることができ、そこで儀式を執行しました。またエホバの聖なるものは、祭司のためでした(レビ 23:20; 27:21)。

「かれらは、分け前や嗣業をもたない。エホバこそ、かれらの分け前であり、嗣業である」(民数 18:20申命記 10:9; 18:1)。

「レビ人は、長子の代わりとして、エホバのものである。エホバがアロンに与えたものである」(民数 3:9,12,13,40-終わり,8:16-19)。

「大祭司は、レビ人とともに、幕屋を張り、出発するときに、宿営の真中にいなくてはならない」(民数 1:50-54; 2:17; 3:23-38; 4:1-終わり)。

「アロンの子孫の中で、燔祭や犠牲をささげるために近づく場合、だれしも傷をもった者であってはならない」(レビ 21:17-20)。

それ以外に、レビ記 21:9-13を含め、他にも多くの箇所があります。

⑧ 以上のすべては、最高の意味で、主の〈神の善〉を表象します。またそれに関連して、愛と仁愛の善を表わします。聖性の衣服と呼ばれたアロンの衣服は、〈神の善〉に依存する〈神の真理〉を表わします。それについては、神なる主の慈しみに頼って、出エジプト記で、説明することにします。

⑨ 「王」は真理を意味し、「祭司」は善を意味します。〈みことば〉では、多くの箇所で、王と祭司を登場させます。ヨハネの書には次のようにあります。

「イエス・キリストは、神であるご自分の父のために、われわれを王とし、祭司として下さった」(黙示録 1:6; 5:10)。

「王」と言われるのは、信仰上の真理に根ざし、「祭司」と言われるのは、仁愛の善に根ざしています。前述の通り、主のうちにある人々は、天界の天使のように、真理と善が結ばれています。「王とされ、祭司とされる」には、そのような意味があります。

⑩ エレミヤ書には次のようにあります。

「その日、次のことが起こる。・・・王と司たちとは、その心を失い、祭司たちは仰天し、預言者は驚く」(エレミヤ 4:9)。

同じく、

「イスラエルの家は、恥じをかく。かれらの王たち、司たち、祭司たち、預言者たちもみな、そうである」(エレミヤ 2:26)。

同じく、

「ユダの王たち、その司たち、祭司たち、預言者たち、エルサレムの住民」(エレミヤ 8:1)。

上掲では、「王たち」とは、諸真理を、「司たち」とは、最重要の真理を(1482,2089,5044節)、「祭司たち」とは、諸善を、「預言者たち」とは、教える人たちを意味します(2534節)。

⑪ それ以外にも、次のことは知っておく必要があります。「ヨセフは、祭司たちの土地を買い取らなかった」とは、真理と善を受け止める能力は、すべて主に依存するという事実の表象でした。モーセの書には、レビ人の畑について、同様の律法があるところから、明らかです。

「レビ人たちの町々の周囲にある畑は、売ってはならない。それはかれらの永久の所有だからである」(レビ 25:34)。

愛と仁愛の善を示す〈教会の善〉は、主おひとりの所有であるため、だれも自分のものとして権利を主張してはならないわけです。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.