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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #4735

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4735. 「血を流してはいけない」とは、聖なるものに暴虐を加えないようにという意味です。それは後述するように、「血」が聖なるものの意味をもつからです。したがって、「血を流す」とは、聖なるものに暴虐を加えることです。

天界における聖なるものは、すべて主の神人性から発出します。また教会における聖なるものも、みなそうです。その聖なるものに暴虐が加えられないようにするため、主は聖餐式を制定なさいました。聖餐式では、パンはご自身の体であり、ぶどう酒はご自身の血であると明言されています。したがって、聖餐式での聖なるものは、主の神人性から発しています。

古代人にとって、「血と肉」は、人間固有のものを意味しました。人間性は、肉と血からなっているためです。それで主はシモンに向かって言われました。

「あなたは幸いである。あなたにそれを啓示したのは、血肉ではなく、天におられるわたしの父である」(マタイ 16:17)。

したがって、聖餐式において、パンとぶどう酒によって示された肉と血は、主の固有の人間性 です。そして神性こそ主の固有性そのもので、ご自身の固有の能力を用いて獲得されました。主の固有性は、主の父としてのエホバに由来し、ご自身のみごもり以来のものです。ご自身こそエホバでした。したがって主が人間性の中で、みずから獲得された固有性とは、その神性だったわけです。人間性の中にあるこの神的固有性こそ、肉と呼ばれ、血と呼ばれます。「肉」とは、主の〈神の善〉であり(3813節)、「血」とは、〈神の善〉にぞくする〈神の真理〉です。

② 主の人間性は、栄化された後、すなわち神化された後は、(普通の)人間としては概念化されません。むしろ人間的〈かたち〉の中にある神の愛です。主の場合は、天使たちよりずっとそうです。天使たちが現れると、わたしの目に映ったかぎり、人間の姿をした愛と仁愛の〈かたち〉でしたが、これは主のみ力によるものです。

主がご自身の人間性を神化されたのは、神の愛に由来します。人が死後、天使になる場合も、前述のように、人間の姿をした愛と仁愛の〈かたち〉として現れますが、それが天的愛に由来するのと同じです。主の神人性がもつ天的意味は、神の愛です。それは全人類にたいする愛です。つまり全人類を救い、永遠にまで至福を与え、幸福にし、人が把握できるかぎり、ご自身の神性を同化させたいとされる神の愛です。

聖餐式の中で示され、表わされているのは、この愛であるとともに、主にたいする人間側の相補的愛であり、隣人にたいする愛です。そこで、「肉すなわちパン」は、神の天的愛であり、「血すなわちぶどう酒」は、神の霊的愛です。

③ 主の肉を食べるとか、主の血を飲むことが何を意味するか、ヨハネ福音書の〈みことば〉により、今ここで明らかになります。

「わたしは天から下ってきた生けるパンである。このパンを食べる者は、永遠に生きる。わたしが与えるパンは、わたしの肉である。・・・よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたがたの中に〈いのち〉はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の〈いのち〉があり、わたしはその人を最期の日に復活させる。わたしの肉は、真に食物であり、わたしの血は、真に飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしの中に留まり、わたしもまたその人に留まる。・・・これは天から下ってきたパンである」(ヨハネ 6:50-58)。

「肉と血」は、前述のように、主の神人性に由来する神的天性であり、神的霊性です。換言すれば、主の愛の〈神の善〉であり、〈神の真理〉です。「食べ、飲む」とは、それをみずからに同化させることです。信仰の〈いのち〉でもある愛と仁愛の〈いのち〉を同化させることです。「食べる」とは、みずからに善を同化させることであり、「飲む」とは、みずからに真理を同化させることです(2187,3069,3168,3513,3596,3734,3832,4017,4018節参照)。

④ 「血」とは、天的意味では、神的霊性すなわち主の神人性から発出する〈神の真理〉を意味します。したがって、聖なるものです。なぜなら、〈神の真理〉は、主の神人性から発出するもので、聖性そのものだからです。聖性はそれ以外にはなく、それ以外の源もありません。

⑤ 「血」とは、その聖なるものです。それは〈みことば〉の多くの箇所から明らかです。その中から引用すると、エゼキエル書には次のようにあります。

「主エホビは言われる。人の子よ、天のすべてのトリと、すべてのケモノに言いなさい。あなた方は集まって来なさい。わたしがあなた方のために供えた犠牲、すなわちイスラエルの山々の上にある、大いなる犠牲に、四方から集まりなさい。それはその肉を食い、その血を飲み、勇士の肉を食べ、地の司たちの血を飲みなさい。雄ヒツジ、子ヒツジ、雄ヤギ、・・・バシャンの肥えたすべてのケモノを食べなさい。わたしがあなた方のために供えた犠牲から、飽きるまでその脂肪を食べ、酔うまで血を飲みなさい。あなた方は、わが食卓について、ウマと、騎手と、勇士と、もろもろの戦士を飽きるほど食べなさい。わたしは諸民族にわが栄光を示そう」(エゼキエル 39:17-21)。

上掲は、すべての者が、主のみ国に呼び集められていること、とりわけ諸民族異教徒の中に教会が設立されることが謳(うた)われています。「肉を食べ、血を飲む」とは、〈神の善〉と〈神の真理〉、つまりは主の神人性から発出する聖なるものを自分に同化させることです。

「勇士の肉を食べ、地の司たちの血を飲みなさい」、さらに「ウマと、騎手と、勇士と、もろもろの戦士を飽きるほど食べなさい」とありますが、その「肉」や「血」が実際の肉や血を指していないことは、だれにも分かります。

⑥ ヨハネの書にもあります。

「わたしは一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。その天使は中空を飛んでいるトリすべてにたいし、大声で叫んだ。さあ、偉大なる神の晩餐に集まってきなさい。そして王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、ウマの肉、ウマに乗っている人の肉、すべての自由人と奴隷の肉、小さい者と大きな者との肉を食べなさい、と」(黙示録 19:17,18)。

上掲でも同様に、「肉」の内的意味を知らないかぎり、以上の意味は不明です。また、「王、将軍、勇者、ウマ、ウマに乗っている人、自由人、奴隷」の意味についても同じです。

⑦ ゼカリヤ書には、次のようにあります。

「かれは諸民族に平和を告げるであろう。その支配は海から海に及び、大川から地の果てにまでおよぶ。あなたについては、あなたとの契約の血によって、わたしは、あなたの捕われ人を穴から解放する」(ゼカリヤ 9:10,11)。

上掲は主をテーマにしています。「契約の血」とは、主の神人性から発出する〈神の真理〉です。同時に、主の栄化されたあと、主から発出した聖性そのものを指します。その聖性は、次のヨハネの福音書にあるように、聖霊 とも言われます。

「イエスは言われた。渇いている者は、だれでもわたしのもとに来て、飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に記してあるように、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう、と。これはご自身を信じる人々が受けるはずの聖霊を指して言われた。イエスはまだ栄化されていなかったため、聖霊はまだ存在していなかった」(ヨハネ 7:37-39)。

「聖霊」とは、主から発出する聖なるものであることは、ヨハネ 6:63を参照してください。

⑧ また「血」とは、主の神人性から発出する聖なるものです。ダビデの書にあります。

「かれらの魂を、策謀と暴虐からあがなってください。かれらの血は、その方の目には貴重である」(詩篇 72:14)。

「貴重な血」は、かれらが受け取るはずの聖なるものです。ヨハネの書には次のようにあります。

「かれらは、大きな患難をとおって来て、その上着を洗い、子ヒツジの血でそれを白くした」(黙示録 7:14)。

同じく、

「かれらは子ヒツジの血によって、また、その方の証しの言葉によって、竜に勝った。そして死に至るまで、自分の魂を愛さなかった」(黙示録 12:11)。

⑨ 上掲にある「子ヒツジの血」というと、現代の教会では、主のご受難しか念頭にありません。主が苦難を経られたからこそ救われたと信じ、主がこの世に遣わされたのはそのためだと信じていますが、この考えは、より内部にある秘義を理解できない無学単純な人たちのすることです。

主のご受難は、主がご自分の人間性を完全に栄化なさるための、最後の試練・誘惑でした(ルカ 24:26ヨハネ 12:23,27,28; 13:31,32; 17:1,4,5)。上掲の「子ヒツジの血」とは、〈神の真理〉です。すなわち主の神人性から発出する聖なるものです。それは、先に触れた「契約の血」と同じです。

⑩ それについて、モーセの書には次のようにあります。

「モーセは契約の書を取って、民の耳に読み聞かせた。かれらは言った。わたしたちはエホバが語られたことを、すべて行い聞き従います、と。そこでモーセは血を取って民の上に撒布(さんぷ)し言った。見よ、これはエホバがその全言葉にしたがい、あなた方と結ばれる契約の血である、と」(出エジプト 24:7,8)。

「契約の書」とは、当時かれらに与えられていた〈神の真理〉です。それが主の神人性に由来することを証しするため、血によって確証されました。

⑪ ユダヤ教会の儀礼で、「血」は、主の神人性から発する聖なるものに他なりません。したがってかれらは、聖別される際、血によってその聖別が行われました。アロンとその息子たちの聖別については、次のようにあります。

「そのとき、血を祭壇の角に撒布し、残りの血を祭壇の基礎に注いだ。・・・またかれの右の耳たぶと、右手足の親指と・・・その服に注いだ」(出エジプト 29:12,16,20レビ 8:15,19,23,30)。

「アロンは、贖罪所の垂幕の内に入るが、・・・そのとき東に向かって、贖罪所にたいし、七たび指で血を撒布すること」(レビ 16:12-15)。

なだめの儀式や、清めの儀式にあるように、その他の聖別式でも同じです。それについては、出エジプト 12:7,13,22; 30:10レビ 1:5,11,15; 3:2,8,13; 4:6,7,17,18,25,30,34; 5:9; 6:27,28; 14:14-19,25-30; 16:12-15,18,19申命記 12:27を参照してください。

⑫ 純粋の意味で「血」は聖なるものを意味するのにたいし、対立する意味では、(単数と複数の)血は、聖なるものに暴虐を加えるものを指します。「無垢の血を注ぐ」には、聖なるものに暴虐を加えるという意味があるのも、そのためです。したがって、背信的生活や冒涜的信心を「血」と言ったのは、そこから来ます。(単数と複数の)血には、そのような意味があることは、次の箇所からも分かります。イザヤ書には次のようにあります。

「主は、シオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。それは裁きの霊によるもの、浄化の霊によるものである」(イザヤ 4:4)。

同じく、

「デボンの水は、血で満ちている」(イザヤ 15:9)。

同じく、

「あなた方の手は血で汚れ、あなた方の指は不義で汚れている。・・・かれらの足は悪に走り、無垢の血を流すことに速い。かれらの思いは不義の思いである」(イザヤ 59:3,7)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「また、あなたの着物のすそには、無垢の貧しい人の魂の血が見つけられる」(エレミヤ 2:34)。

⑬ 同じく、

「預言者たちの罪、祭司たちの不義のためである。かれらは義人の血をエルサレムの真中で流した人々である。かれらは大路をさまよう盲人であり、血で汚れている。かれらは力のないものを衣服で触る」(哀歌 4:13,14)。

エゼキエル書には次のようにあります。

「わたしはあなたの傍を通り、あなたが血の中で踏みつけられているのを見て、あなたに言った。あなたの血の中で生きなさい。・・・わたしは水であなたを洗い、あなたから血を洗い落して、あなたに油を塗った」(エゼキエル 16:6,9)。

同じく、

「人の子よ、あなたは血塗られた町と論じ合うか。この町に、その憎むべき事を全部示しなさい。・・・あなたはその流した血によって罪に定められ、その造った偶像によって汚されている。・・・見よ、イスラエルの司たちは、おのおのその腕に応じて血を流した。・・・あなたの中には、血を流そうとした策謀家がいた。人々はあなたの中で、山々に向かって食事をした」(エゼキエル 22:2-4,6,9)。

モーセの書には次のようにあります。

「だれでも、幕屋にある祭壇以外のところで犠牲をささげた者は、血を流し、血を流した者とみなされる」(レビ 17:1-9)。

⑭ 血について次に引用される箇所は、虚偽化され、冒涜された真理を意味します。ヨエル書には次のようにあります。

「わたしは天と地に奇跡を見せる。血と火と煙の柱である。エホバの大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は暗黒となり、月は血に変わる」(ヨエル 2:30,31)。

ヨハネの書には次のようにあります。

「太陽は、毛織の荒布のように黒くなり、月は全面、血のようになった」(黙示録 6:12)。

同じく、

「第二の天使がラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかる大きな山のようなものが海に投げ込まれた。そして海の三分の一は血となった」(黙示録 8:8)。

同じく、

「第二の天使が、その鉢の中のものを海に注いだ。すると海は死人の血のようになって、海中の生きた魂がみな死んでしまった。第三の者がその鉢の中のものを川と水の源とに注いだ。すると血になった」(黙示録 16:3,4)。

⑮ 同じく、

「エジプトでは、河川と、水の集まりや水たまりは、血に変わった」(出エジプト 7:15-22)。

「エジプト」とは、みずから天的秘義に侵入し、神的真理を倒錯させ、否定し.冒涜する科学を指します(1164,1165,1186節)。エジプトでの奇跡は、神よりのものであったため、以上のような意味をもっています。「血に変わった河川」とは、理知と英知に属する諸真理です(108,109,3051節)。

「水」にも同じ意味があります(680,2702,3058節)。「泉」については、2702,3096,3424節を参照してください。「海」とは、科学知的諸真理の複合です(28節)。血に変わると言われる「月」は、〈神の真理〉です(1529-1531,2495,4060節)。したがって、「月、海、泉、水、河川が血に変わった」とは、虚偽化され、冒涜された真理を意味します。

  
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天界の秘義 #3813

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3813. 「肉」について触れておくと、最高の意味で、肉は、主の神人性のエゴを意味します。それは神の善です。また相対的意味では、主の神人性のエゴ、すなわち主の神の善によって生かされた、人の意志的エゴを表わします。このエゴこそ天的エゴと言われるものです。この天的エゴは、それ自身にあって、主おひとりが、善と真理を宿す人々にたいし、同化されるものです。諸天界にいる天使たちには、このようなエゴがあります。またその内部で、つまり霊の面で、主のみ国にいる人々にも、このエゴがあります。

ただし、反対の意味での「肉」は、人の意志的エゴを意味します。これはそれ自身として、悪以外の何ものでもありません。主によって生かされていないため、死んだものであって、このような人間は、死人と言われています。

② 「肉」は、その最高の意味で、主の神人性のエゴを表わします。それはつまり主の神的善です。ヨハネによる福音書から明らかです。

「(イエスは言われた)。わたしは天から下った生けるパンである。これを食べる者は永遠に生きる。わたしが与えるパンは、世の〈いのち〉のために与えるわたしの肉である、と。そこでユダヤ人らは互に論じて言った。この人はどうして自分の肉を与えて食べさせることができるのか、と。イエスはかれらに言われた。よく言っておく。人の子の肉を食べず、その血を飲まないなら、あなた方のうちに〈いのち〉はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の〈いのち〉があり、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は本当に食物であり、わたしの血は本当に飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしにおり、わたしもまたその人におる。・・・これは天から下ってきたパンである、と」(ヨハネ 6:51-58)。

以上の「肉」とは、主の神人性のエゴ、つまりは神の善であることは明らかです。これはまた聖餐にあたって、「からだ」と言われました。そこでの体、すなわち肉は、神の善であり、血は、神の真理です(1798,2165,2177,3464,3735節参照)。パンとぶどう酒は、肉と血と同じものを意味するため、肉と血の代わりとして、以上が定められました。それで主は、「わたしは、生けるパンであり、わたしが与えるパンは、わたしの肉である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちに留まり、わたしもその人のうちに留まる。これは天から下ったパンである」と言われました。「食べる」とは、交流すること、結びつくこと、同化することです(2187,2343,3168,3513,3596節を参照)。

③ 「アロンとその息子たち、犠牲をささげた人、他にも清くなった人は、犠牲の肉を食べる。しかもその肉は聖なるものである」とあります。これはユダヤ教会における同様の表象です(出エジプト 12:7-9; 29:30-34レビ記 7:15-21; 8:31申命記 12:27; 16:4を参照のこと)。そのため「清くないまま、その肉から食べる者は、その国民から断たれる」(レビ記 7:21)とあります。

これらの犠牲は、「パン」と言われ(2165節)、その肉は「聖性の肉」と呼ばれました(エレミヤ 11:15ハガイ 2:12)。また「主のみ国における食卓上の供えの肉」(エゼキエル 40:43)とあり、これは新しい神殿についての言及です。主のみ国における主への信心を意味することは、明らかです。

④ 相対的意味で「肉」は、主の神的善によって生かされた人の意志的エゴを指します。エゼキエル書の次の箇所から分かります。

「わたしは、かれらに一つの心を与える。あなた方の真中に新しい霊を授ける。かれらの肉から石の心を取り去って、肉の心を与える」(エゼキエル 11:19; 36:26)。

「かれらの肉から石の心を」とは、生かされていない意志的エゴを表わします。「肉の心」とは、生かされた意志とエゴです。「心」は、意志的善を表象します(2930,3313,3635節)。ダビデの書には次のようにあります。

「神よ、わたしの神よ、わたしは朝あなたを求め、わが魂はあなたを渇き望む。水のない、乾いて干上がった地で、わが肉はあなたを慕う」(詩篇 63:1)。

同じく、

「わが魂は、エホバの大庭を慕い、わが心とわが肉は、生ける神にむかって喜び歌う」(詩篇 84:2)。

⑤ ヨブ記には、次のようにあります。

「わたしは、わたしのあがない主が生きておられるのを知る。最後には、塵の上に立たれる。これがわたしの皮膚で覆われたあと、わたしは肉から神を見る。わたしはその方を味方として見る。わたしの眼でしかそれを見ない」(ヨブ 19:25-27)。

「皮膚で覆われる」とは、人が死後自分のものとしてもつ自然性を指します(3539節)。「わたしの肉から神を見る」とは、生かされたエゴからという意味です。だからこそ「わたしはその方を味方として見る。わたしの眼でしかそれを見ない」と言われています。

ヨブ記は、古代教会の書物でした(3540節参照)。そして古代教会では、「肉」がエゴを意味するものと知られていました。したがって、他の多くの場合も含め、当時の習慣にしたがい、含意を基にして、ヨブは語っています。

したがって人の死骸が四方から吹く風で集められ、復活するという考えは、〈みことば〉の内的意味を知らないことになります。内的意味を理解している人は、より純粋な肉体を伴って来世にやってくるのを知っています。来世では、肉体は格段に純粋になります。互いに見、互いに語り、肉体上のあらゆる感覚、しかもより繊細になった感覚を享有します。

人が地上で身にまとう肉体は、地上で役立つような骨や肉から成り立っています。それにたいし、来世で霊が身にまとう体は、骨や肉からでなく、来世で役立つように、それに相応するものから成り立っています(3726節参照)。

⑥ 反対の意味での「肉」は、人の意志的エゴを示します。これは悪以外の何ものでもありません。それは次の箇所から分かります。イザヤ書にあります。

「人は、自分の腕の肉を食べる」(イザヤ 9:20)。

同じく、

「わたしは、あなたの圧迫者に、自分の肉を食わせ、かれらに、自分の血を、新しい酒のように飲ませ酔わせる」(イザヤ 49:26)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「わたしはかれらに、自分の息子の肉、娘の肉を食べさせる。かれらは自分の仲間の肉を食べる」(エレミヤ 19:9)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「残存者は、他人の肉を、好きなだけ食う」(ゼカリヤ 11:9)。

モーセの書には次のようにあります。

「わたしは、あなた方の罪を七倍重く罰する。あなた方は自分の息子の肉を食べ、自分の娘の肉を食べる」(レビ 26:28,29)。

上掲では、意志的エゴ、すなわち人の自然性が浮き彫りにされています。そこには、悪とそれからくる偽りしかなく、諸真理や諸善にたいする憎しみがあります。「自分の腕の肉、息子や娘の肉、他人の肉を食う」とは、それです。

⑦ ヨハネの書には、次のようにあります。

「わたしは、一人の天使が太陽の中に立っているのを見た。かれは天の中空を飛んでいるトリのすべてに向かい、大声で叫んだ。さあ、大いなる神の宴会に集まりなさい。王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、ウマの肉、騎手の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉を食べなさい」(黙示 19:17,18エゼキエル 39:17-20)。

上掲で、「王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、ウマの肉、騎手の肉、自由人と奴隷の肉」とは、そのままの意味でないことは、だれにも分かります。「肉」とは、従来知られていなかったものです。それは偽りに由来する悪、その偽りのもとになる悪を意味し、人の意志的エゴがもとになるものであることは、一語一語から明らかです。

⑧ 「血」とは、人の理知的エゴから生じる偽りの内的意味です。また、「肉」は、人の意志的エゴから生じる悪を指します。主は再生した人について、次のように言われています。

「受けいれた者、そのみ名を信じる者には、神の子となる力を与えられた。それは血からでなく、肉の意志からでなく、人の意志からでなく、ただ神によって生れた人である」(ヨハネ 1:12,13)。

したがって、一般的に「肉」というと、すべての人を指します(574,1050節参照)。というのは、人と言っても、人のエゴと言っても同じだからです。

⑨ 最高の意味での「肉」は、主の神人性を意味します。これは前に引用したところから、および次のヨハネ福音書からも明らかです。

「〈みことば〉は肉となり、わたしたちの中に宿った。わたしたちは、その栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であった」(ヨハネ 1:14)。

以上の肉によって、すべての肉が生かされます。すなわち主の神人性から、すべての人が生かされます。それは、主の愛を同化させることによります。「人の子の肉を食べる」とは、その同化を意味します(ヨハネ 6:51-58)。そして聖餐式でパンを食べるのもそうです。パンは身体、すなわち肉だからです(マタイ 26:26,27)。

  
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