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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #6148

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6148. 「かれは、祭司の土地だけは、買い取らなかった」とは、自然性に根ざす内部のものが、善を受け入れる能力を手に入れたこと、しかもその能力が自分自身の力によるものであることを意味します。その根拠は次の通りです。

「かれ」とあるのは「ヨセフ」ですが、「ヨセフ」は、前述のように、内部のものを指します。「土地(土)」とは、6135-6137節で触れたように、真理の受け皿で、ここでは善を受け止める能力を指します。能力とは、受け止める可能性のことで、受け皿が受け皿になるため必要な可能性です。その能力は、善に由来します。換言すれば、善を介して、主に由来します。

主から、愛の善が流入として注がれなければ、真理にしても、善にしても、人は受け止める能力がありません。主から愛の善が流入として注がれ、その結果、人の内部で受け止めるよう、万事が整えられます。「エジプトに土地(土壌)があった」のは、自然性に根ざす〈善を受け止める能力〉を示します。「エジプト」とは、科学知の面からみた自然性を意味するからです(6142節)。

「祭司(職)」は、これから述べるように、善を意味します。「買い取らない」とは、そのような能力を、自分のものとして同化しないことという意味です。かつては、その受け皿もろとも、諸真理と真理の諸善を、自分のものとして同化しましたが、それは荒涼と養いがあってこそ起こったことです。なぜなら、当該の能力は、自分自身、つまり内部のものの力に依存したからです。

したがって、「祭司たちの土地だけは、買い取らなかった」とは、内部のものが自然性に根ざして、善を受け止める能力をみずから獲得したという意味になります。その能力は、自らのものだからです。

② 事情を説明すると、次の通りです。真理と善を受け止める能力が、人にあるとすれば、それは直接的に主からくるもので、その能力を獲得するため、人の力を借りることは、決してありません。ところで、善と真理を受け止める能力は、いつも人に備わっています。理性と意志は、その能力に根ざしています。

人が悪のほうに身を転じると、善や真理を受け止められません。その際、能力はあっても、思考や感覚に向かう入口が閉ざされています。そのようなわけで、人が悪に身を転じ、〈いのち〉と信仰の力を借りて、その悪に身を固めれば固めるほど、真理を見る能力、善を感じとる能力は、それだけ失われていきます。

真理と善を受け止める能力にたいして、人はまったく無力であることは、教会の教義からも知られています。信仰上の真理にしても、仁愛上の善にしても、人の力によるものは何もなく、主のみ力によるという教えです。人は、自分にあるそのような能力を根絶させることが可能なのです。

自然性に根ざす内部のものが、善を受け止める能力を自力で獲得したのは、その能力が自らに依存するためであるとは、どのような意味か、ここで明らかになります。「自然性に根ざす」とあるのは、主からの善の流入が、内部を通過して、主から、自然性にたいして注がれるからです。そこで受け止める能力を獲得したとき、流入が注がれます。受け止めが成立するのは、そのときです(5828節)。

③ 「祭司」は諸善を意味しますが、忘れてならないことは、主から発出するものには、善と真理という二つがあることです。「祭司」は〈神の善〉の表象、「王」は〈神の真理〉の表象でした。そのため「祭司たち」とは諸善を意味し、「王たち」は諸真理を意味します。主について述べるさいの祭司職や王職については、1728,2015,3670節を参照してください。

古代の表象的教会では、祭司職と王職の二つは、ひとりの人格の中で結ばれていました。主から発出する善と真理は、一体化していたからです。また天界における天使たちのもとでも、結ばれていました。

④ 古代教会で、以上の二つが結ばれたひとりの人格は、メルキゼデク、すなわち「正義の王」という名前の人でした。メルキゼデクは、アブラハムのもとに来ましたが、かれについては次のようにあります。

「サレムの王メルキゼデクは、パンとブドウ酒とを持ってきた。かれはいと高き神の祭司である。かれはアブラハムを祝福した」(創世記 14:18,19)。

メルキゼデクは、祭司と王の両面で、主を表象していました。かれは王であったと同時に祭司でしたし、アブラハムを祝福し、パンとブドウ酒を献じることが許されていました。パンとぶどう酒は、〈愛の善〉と〈信仰の真理〉両方のシンボルだったわけです。両方の面で主を表象していたことは、ダビデの書からも明らかです。

「エホバは、誓いを立てられた。エホバには、後悔はない。あなたは、メルキゼデクの位にしたがって、永遠にいたる祭司である」(詩篇 110:4)。

上掲は、主について言われています。「メルキゼデクの位にしたがって」とは、王と祭司であることです。つまり最高の意味で、そのお方から、〈神の善〉と〈神の真理〉が一つとなって発出することを意味します。

⑤ ヤコブの子孫のもとに、表象的教会が設立され、こうしてまた、一つのものとして主から発出する〈神の善〉と〈神の真理〉は、ひとりの人格の下に結ばれ、表象的に表わされました。

しかし当初、該当の民の行った戦いや偶像崇拝がもとで、その二つは分裂しました。民を支配したのは、指揮官 でしたが、後に、士師 になりました。聖なる儀式をつかさどっていた人は、祭司と呼ばれ、アロンの子孫、つまりレビ族出身者でした。しかしやがて、エリやサムエルの場合のように、二つのものがひとりの人格に統合されました。

しかしこの民のもとでは、偶像崇拝が支配的となったため、表象的教会 の成立は不可能となり、たんなる教会における表象物 になりました。その結果、二つは分裂を余儀なくされ、〈神の真理〉の面で主を表象するのが王であり、〈神の善〉の面で主を表象するのが祭司になりました。

これは民のわがままから出たことで、主の思し召しによって起こったことではありません。エホバがサムエルに言われた〈みことば〉から明らかです。

「民の声に従って、あなたに向かって言った事をすべて行いなさい。かれらはあなたを退けるのでなく、わたしがかれらの王にならないよう、わたしを退けるのである。・・・かれらに、王政の権利を認めてやりなさい」(サムエル上 8:7-終わり;12:19,20)。

⑥ 以上の二つは、分離されてはなりません。なぜなら〈神の善〉から切り離された〈神の真理〉は、人をみな断罪することになりますが、〈神の善〉に結ばれた〈神の真理〉は、人を救うからです。人が地獄の断罪を受けるとすれば、それは、〈神の真理〉によります。しかし〈神の善〉によって、地獄を逃れ、天界に挙げられます。

救いは、慈悲によるものです。つまりは、〈神の善〉によって救われます。人がその慈悲を拒否し、みずから〈神の善〉を排除し、〈神の真理〉の裁きに身をゆだねるとき、それが断罪につながります。「王」が〈神の真理〉を表象することについては、1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節を参照ください。

⑦ 「祭司」は、〈神の善〉の面から見た主を表象します。祭司が善を意味することは、アロンおよびレビ族を祭司職に認定した内的意味上の経緯から、すべて明らかです。大祭司だけが至聖所に入ることができ、そこで儀式を執行しました。またエホバの聖なるものは、祭司のためでした(レビ 23:20; 27:21)。

「かれらは、分け前や嗣業をもたない。エホバこそ、かれらの分け前であり、嗣業である」(民数 18:20申命記 10:9; 18:1)。

「レビ人は、長子の代わりとして、エホバのものである。エホバがアロンに与えたものである」(民数 3:9,12,13,40-終わり,8:16-19)。

「大祭司は、レビ人とともに、幕屋を張り、出発するときに、宿営の真中にいなくてはならない」(民数 1:50-54; 2:17; 3:23-38; 4:1-終わり)。

「アロンの子孫の中で、燔祭や犠牲をささげるために近づく場合、だれしも傷をもった者であってはならない」(レビ 21:17-20)。

それ以外に、レビ記 21:9-13を含め、他にも多くの箇所があります。

⑧ 以上のすべては、最高の意味で、主の〈神の善〉を表象します。またそれに関連して、愛と仁愛の善を表わします。聖性の衣服と呼ばれたアロンの衣服は、〈神の善〉に依存する〈神の真理〉を表わします。それについては、神なる主の慈しみに頼って、出エジプト記で、説明することにします。

⑨ 「王」は真理を意味し、「祭司」は善を意味します。〈みことば〉では、多くの箇所で、王と祭司を登場させます。ヨハネの書には次のようにあります。

「イエス・キリストは、神であるご自分の父のために、われわれを王とし、祭司として下さった」(黙示録 1:6; 5:10)。

「王」と言われるのは、信仰上の真理に根ざし、「祭司」と言われるのは、仁愛の善に根ざしています。前述の通り、主のうちにある人々は、天界の天使のように、真理と善が結ばれています。「王とされ、祭司とされる」には、そのような意味があります。

⑩ エレミヤ書には次のようにあります。

「その日、次のことが起こる。・・・王と司たちとは、その心を失い、祭司たちは仰天し、預言者は驚く」(エレミヤ 4:9)。

同じく、

「イスラエルの家は、恥じをかく。かれらの王たち、司たち、祭司たち、預言者たちもみな、そうである」(エレミヤ 2:26)。

同じく、

「ユダの王たち、その司たち、祭司たち、預言者たち、エルサレムの住民」(エレミヤ 8:1)。

上掲では、「王たち」とは、諸真理を、「司たち」とは、最重要の真理を(1482,2089,5044節)、「祭司たち」とは、諸善を、「預言者たち」とは、教える人たちを意味します(2534節)。

⑪ それ以外にも、次のことは知っておく必要があります。「ヨセフは、祭司たちの土地を買い取らなかった」とは、真理と善を受け止める能力は、すべて主に依存するという事実の表象でした。モーセの書には、レビ人の畑について、同様の律法があるところから、明らかです。

「レビ人たちの町々の周囲にある畑は、売ってはならない。それはかれらの永久の所有だからである」(レビ 25:34)。

愛と仁愛の善を示す〈教会の善〉は、主おひとりの所有であるため、だれも自分のものとして権利を主張してはならないわけです。

  
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天界の秘義 #2015

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2015. 「王たちは、あなたから出る」とは、すべての真理は主に由来することを意味します。〈みことば〉での「王」とは、歴史的にも預言的にも、真理を表わすことは、1672節で述べましたが、それほど明確ではありません。

「諸民族」が善を、「諸王」が真理を意味することについては、その〈みことば〉の内的意味がどのようなものかを示すだけでなく、それが文字上の意味からどれほど遠いかを示します。〈みことば〉でも、とりわけ歴史的な〈みことば〉を読むとき、人はそこにある「諸民族」は諸民族であり、「諸王」は諸王であると信じ、しかも〈みことば〉そのものの中での諸民族をとりあげ、また諸王をとりあげていると信じます。しかし天使たちに受け止められると、諸民族や諸王は消え、その代わりに善と真理が浮き彫りにされます。これは意外に見えるし、逆説的でもありますが、実際は上述のとおりです。

次のように言えば、だれにも明らかになります。すなわち、もし〈みことば〉で「諸民族」が単なる諸民族であり、「諸王」が単なる諸王だったとすると、主の〈みことば〉が歴史物語か記録でしかなく、現世的な書物になってしまいます。ところが、〈みことば〉には、神的でないもの、つまりは天的・霊的でないものは、一つもありません。

② 「アブラハムは非常に多くの子孫を得、かれから諸民族が起こり、諸王が出た」という一節にしても、これは一見現世的な記述でしかなく、天的なものは全くありません。そこにはこの世の栄光しかなく、天界にはそのような栄光はありません。

しかしこれが主の〈みことば〉なら、天界の栄光があり、この世のものはありません。これが天界に移行すれば、文字上の意味はまったく消えていきます。そして現世的なものが混入しないように、浄化されます。

それゆえに、「アブラハム」とは、アブラハムのことではなく、主を指します。「多くの子孫を得る(多くの実りをもたらす)」は、子孫が非常に増えるというのではなく、主の人間性の善が、永遠に増えていくという意味です。「諸民族」と言っても、諸民族でなく、諸善です。「諸王」と言っても、諸王でなく、諸真理です。

文字上の意味での歴史性は、真実なものとして保たれています。アブラハムについて言われたことは、そのとおりです。かれは多くの子孫を得ただけでなく、かれから多くの民族が出、多くの王が輩出しました。

③ 「諸王」が真理を示すことは、次の箇所から明らかです。イザヤ書には、次のようにあります。

「他国の息子たちはあなたの城壁を築き、かれらの王たちは、あなたに仕える。・・・あなたはまた、諸民族の乳を吸い、王たちの乳ぶさを吸う」(イザヤ 60:10,16)。

「諸民族の乳を吸い、王たちの乳ぶさを吸う」は、文字上の意味は不明ですが、内的意味は、諸善をいただき、諸真理によって教育されることを指します。エレミヤ書には、次のようにあります。

「ダビデの位に座する王と司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「車とウマに乗って」とは、預言書には頻出し、預言的記録では、理知的なものが豊富にあることを示します。「町の門から入る」とは、その内的意味では、信仰の諸真理の浸透を意味します。これは現世的意味を越える〈みことば〉の天的意味です。

④ エレミヤ書には、次のようにあります。

「エホバは、その激しい怒りによって、王と祭司とを捨てられた。・・・シオンの門は地にうずもれ、エホバはその閂(かんぬき)をこわし砕かれた。諸民族の中の王と君たちには、もはや律法はない」(哀歌 2:6,9)。

上掲で、「王」とは信仰の真理を指します。「祭司」とは仁愛の善を意味します。「シオン」は教会で、「その閂が壊され砕かれ」ます。したがって、「諸民族の中の王と君たち」、すなわち真理と真理に属する事柄は追放され、もはや律法、すなわち信仰の教義らしきものが存在しないまでになりました。イザヤ書には、次のようにあります。

「少年が悪を捨て、善を選ぶことを知る前に、二人の王を目前にして、あなたが畏れている土地は捨てられるであろう」(イザヤ 7:16)。

上掲は主の到来についてです。「捨てられる土地」とは、信仰を指しますが、それが当時失われていました。なお「王たち」は真理を指し、それが退けられました。

⑤ 同じく、次のようにあります。

「わたしは諸民族にむかって手をあげ、諸国民にむかって旗を立てる。かれらはそのふところにあなたの息子たちを携え、その肩にあなたの娘たちを載せてくる。王らはあなたの養父となり、その王妃らは、あなたの乳母となる」(イザヤ 49:22,23)。

原典.I.示したように、「諸民族と娘たち」は善を表わし、「諸国民と息子たち」は真理を表わします。「諸民族」が善を表わすことについては、1259,1260,1416,1849節を、同様に「娘たち」については、489-491節を、「諸国民」が真理を表わすことについては、1259,1260節を、同様に「息子たち」については、489,491,533,1147節を参照してください。

したがって「王たち」は、養育の根拠になる一般的真理を表わし、「王妃たち」は、授乳的育ての根拠になる善を表わします。ここで、善と真理と言っても、善と真理の中にある人と言っても同じです。

⑥ 同じく次のようにあります。

「かれは多くの民族を驚かす。王たちはかれのゆえに口をつむぐ。それはかれらがまだ伝えられなかったことを見、聞かなかったことを悟るからである」(イザヤ 52:15)。

これは主の到来について触れています。「民族」は善によって感化される人たち、「王たち」とは真理によって感化される人たちです。ダビデは次のように記しています。

「王たちは理知的であるように。地の判事たちは教養を深めるように。恐れをもってエホバに仕え、おののきをもって誉めたたたえよ。おん子には口づけせよ。その方が怒って、あなたがたを道で滅ぼされないために」(詩篇 2:10-12)。

「王たち」とは、諸真理の中にある人たちです。また諸真理に根ざしている人たちが随所で「王の息子たち」と呼ばれています。ここでの「おん子」は、主を指します。真理そのものであることから、ここでおん子といわれています。あらゆる真理が存在するのは、その方のおかげです。

⑦ ヨハネは次のように記しました。

「かれらは新しい歌を歌う。あなたこそその巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたです。・・・あなたはわれらの神にたいし、われらを王と祭司とされ、われわれが地上を支配するようなさいました」(黙示録 5:9-10)。

上掲では、諸真理の中にある人たちは「王」と呼ばれます。主もまたそのような人をみ国の子と呼ばれました。マタイによる福音書には、次のようにあります。

「良いタネをまく者は、人の子である。畑は世界である。タネとはみ国の子らで、毒麦は悪い子らである」(マタイ 13:37,38)。

ヨハネは次のように記します。

「第六の天使がその鉢をユウフラテの大河に注いだ。するとその水は、日の出る方から来る王たちの道を備えるため、涸れてしまった」(黙示録 16:12)。

上掲での「ユウフラテ」はユウフラテ川のことではなく、「日の出るほうから来る王たち」も王のことではありません。「ユウフラテ」については、120,1585,1866節を参照してください。「日の出る方から来る王たちの道」とは、愛の諸善に基づく信仰の真理を指しています。

⑧ 同じく、

「救われる諸民族は、その光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの栄光と誉れをそこに携えて来る」(黙示録 21:24)。

上掲では、「諸民族」は善の中にいる人たち、「地の王たち」は、真理の中にいる人たちを指します。ここでは歴史的記録でなく、預言的であることから、明らかです。同じく次のようにあります。

「地の王たちは、多くの水の上に座する大淫婦と姦淫を行い、この女の不倫のぶどう酒に酔いしれている」(黙示録 17:2)。

他の箇所には、「バビロンは、すべての民族にその不倫の怒りのぶどう酒から飲ませ、地の王たちはかの女と姦淫した」(黙示録 18:1,3,9)。

上掲でも同様に、「地の王たち」とは王たちの意味ではなく、信仰の教義、すなわち真理を虚偽に変え 、淫らなものにしたこと、つまり不倫 を指します。「地の王たち」とは、虚偽に変えられ、淫らになった諸真理を指します。

⑨ 同じく、

「あなたが見た十の角は、十人の王のことである。かれらはまだ国を受けてはいないが、ケモノとともに、一時だけ王としての権威を受ける。かれらは心を一つにし、自らの能力と権威とをケモノに与える」(黙示録 17:12,13)。

上掲では、「王たち」とは王たちを意味しているのでないことは、だれにも明らかです。そうでなければ、「十人の王が一時王としての権威を受ける」と言っても、全然理解できません。次も同様です。

「わたしは、ケモノと地の王たちとその軍勢が、ウマに乗っている方およびその軍勢にたいし、戦うために集まったのを見た」(黙示録 19:19)。

「ウマに乗った方」とは、同13節に明言されているように、神の〈みことば〉です。地の王たちは、それに対抗して集まりました。「ケモノ」とは、冒涜された〈愛に属する善〉を、「王たち」とは、淫ら化した〈信仰の真理〉を指します。「地の王たち」とは、教会内にあるものとして取り上げられます。「地」は教会だからです(662,1066,1067,1262節)。

「白いウマ」とは真理の理解を指します。「ウマに乗った方」とは〈みことば〉を指します。ダニエル書第11章には、いっそうはっきりと、「南の王」と「北の王」との間の戦いとして描いています。これは真理と偽りとの戦いで、歴史上の戦争は、その戦いを描いたものです。

⑩ 主が王と呼ばれる場合の内的意味は、「王」が真理を示すことから明らかで、主が祭司と呼ばれるのも同じです。つまり主の中で、王たちが表象するのと同じく、主の中で、祭司たちが表象するものがあります。「王たち」とは、主の神的真理を表わし、「祭司たち」は、主の神的善を表わします。

主が王として宇宙を治められる際の秩序の全法則は、真理です。主が祭司として、宇宙を統括され、真理そのものを治める全根拠は、善です。ただ真理だけによる統治は、人をみな地獄に断罪するものですが、善による統治は、人を地獄から取り上げ、天界に挙げます。それについては1728節を参照してください。

主には二つのものが結ばれています。すなわち、祭司職と王職が結びついた形で、昔から表象されてきました。例えばメルキゼデクは、サレムの王でありながら、同時にいと高き神に仕える祭司でした(創世記 14:18)。その後は、表象的教会のあったユダヤ人の中で、士師と祭司、またその後は王によって、制度化された形で保たれました。

⑪ 「王たち」とは真理を表象します。これは号令的命令を下してはなりませんでした。理由は、前述のように、断罪することになるからです。つまりかれらは叱責されることを好まなかったためです。それで真理とは純粋にどのようなものかが記されました。それが王的律法です。それはサムエル上 8:11-18にありますが、それ以前には、モーセによって申命記 17:14-18で、善の中から、偽物でない純粋の真理を選ぶこと、それは詭弁的推論や科学知で汚してはならないと命じられていました。

以上が王について、上掲箇所でモーセが定めたことです。それは文字上の意味からは見られませんが、内的意味では、個々の項目から明らかです。したがって、「王」や「王政」は、その表象含意するものは、真理以外の何ものでもないことが分かります。

  
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