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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #2009

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2009. 「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず」とは、人間性を脱却することを指します。「あなたの名は、アブラハムと呼ばれる」とは、神性を身に帯びることを意味します。以上は、「名前」とか「アブラム」、また「アブラハム」の意味から分かります。

原典.144,145,1754節で明らかなように、〈みことば〉で「あなたの名前は・・・と呼ばれる」とあるとき、その本人の本体 を意味します。「名前」は本体を意味し、それ自身の中にあるものの全体像を捕らえます。

天界では特定の人の名前には注目しないで、人の名前が口にされると、その性格を表わす概念、または本人が身に帯び、本人の中にあるすべてのものが念頭にのぼります。したがって、〈みことば〉での「名前」は本体的性格を意味するものになります。以上が理解できるよう、〈みことば〉から多くの確認事項をとりあげてみます。

モーセが祝福するさい、次のように言いました。

「願わくはエホバがあなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくはエホバがみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくはエホバがみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように、と。こうしてかれらがイスラエルの息子たちのために、わたしの名を唱えなさい」(民数記 6:24-27)。

以上で、名前とは何か、「イスラエルの息子たちのために、エホバの名を唱える」とはどういう意味か分かります。すなわちエホバが祝福し、守り、照らし、哀れみ、平和を与えることです。エホバ、すなわち主とは、以上のような意味があります。

② 十戒には、次のようにあります。

「あなたは、あなたの神エホバの名を、みだりに唱えてはならない。エホバは、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかない」(出エジプト 20:7申命記 5:11)。

上掲で、主のみ名をみだりに唱えるとは、名前の問題でなく、主によってなされる個々全体を意味します。それは主への信心にかんする個々全体でもあり、軽視されるべきものではないし、まして冒涜したり、不潔物で汚したりしてはなりません。主の祈りにあります。

「み名があがめられますように。み国がきますように。み心が天界で行われているように、地上でも行われますように」(ルカ 11:2)。

「名前」とは、名前を意味するわけでなく、愛と信仰にかんする万事を意味します。愛と信仰こそ、神すなわち主にかんすることであり、主によって行われることです。愛と信仰こそ聖なるものですから、聖なるものとされるとき、主のみ国が到来し、主のみ心が諸天界で行われるように、地上でも行われます。

③ 「名前」にはこのような意味があります。それは旧新約聖書の〈みことば〉で、名前を取り上げている箇所すべてから明らかです。イザヤ書には、次のようにあります。

「その日、あなたがたは言うだろう。エホバをほめたたえよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ、と」(イザヤ 12:4)。

「エホバの名を呼ぶ」、また「あがむべきことを語りつげよ」と言っても、名前に信心をもつとか、そのみ名でエホバが応えられるのを信じるということではありません。むしろどのような方かを知ることにより、またそのお方がなさった個々全体を通して、エホバのみ名を呼ぶことを信じるわけです。同じく、

「したがって、ウリムでエホバをあがめ、海の島々でイスラエルの神、エホバの名をあがめよ」(イザヤ 24:15)。

上掲で、「ウリムでエホバをあがめる」とは、愛に属する聖なるものに根ざして、あがめることです。また「海の島々でイスラエルの神、エホバの名をあがめる」とは、信仰の聖なるものに根ざして、あがめることです。

④ また同じく、

「われわれの神エホバよ、・・・われわれはただ、あなたの名のみをあがめるでしょう」(イザヤ 26:13)。

同じく、

「わたしは北から来させるが、かれは太陽の昇るところから来る。かれはわが名を呼ぶ」(イザヤ 41:25)。

「エホバの名をあがめ、呼ぶ」とは、愛の善と信仰の真理に根ざして仕えることです。「北から来る者」とは、教会外にいて、エホバのみ名については無知の中にありながら、エホバのみ名を呼ぶ人々を指します。かれらは、相互愛の中に生き、宇宙の創造者のみ心を崇めています。エホバのみ名を呼ぶとは、名前を口ずさむことでなく、神礼拝とその本体的性格にあります。諸民族に主が臨在しておられることについては、932,1032,1059節を参照してください。

⑤ 同じくイザヤ書です。

「諸民族はあなたの正義を見、すべての王はあなたの栄光を見る。あなたは、エホバの口が知らせる新しい名で呼ばれる」(イザヤ 62:2)。

「あなたは新しい名で呼ばれる」とは、新しく創造された者、すなわち再生した者という別人を示します。ミカ書には、次のようにあります。

「すべての国民は、みずからの神の名において歩む。われわれは、われわれの神エホバのみ名において永遠に歩む」(ミカ 4:5)。

「みずからの神の名において歩む」とは、あきらかに冒涜的信心を指します。「エホバの名において歩む」とは、真実の信心を指します。マラキ書には、次のようにあります。

「日の出る所から没する所まで、諸民族の中でわが名はあがめられる。またあらゆるところで、香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が諸民族の中であがめられているからである」(マラキ 1:11)。

上掲で、「名」といっても名を意味せず、エホバすなわち主にふさわしい信心を意味し、それに基づいた礼拝を求められています。

⑥ モーセの書には、次のようにあります。

「そこにご自分の名を置き、ご自分の名を住まわせるため、あなた方の神エホバが全部族から選ばれた場所がある。・・・わたしがあなた方に命じたことすべてを、そこに持っていきなさい」(申命記 12:5,11,14; 16:2,6,11)。

上掲で、「ご自分の名を置き」、「ご自分の名を住まわせるため」とあるのは、それは名ではなく、信心を問題にしています。つまりは信心の出発となるエホバすなわち主の本体です。主の本性とは、愛の善と信仰の真理ですから、愛の善と信仰の真理の中にいる人々に、「エホバの名を住まわせられ」ます。エレミヤ書には、次のようにあります。

「わたしが最初、わたしの名を住まわせた場所シロへ行きなさい」(エレミヤ 7:12)。

上掲の場合も、名は信心を表わします。結局、信仰の真理にかんする教義を意味します。エホバのみ名を知り口づさむだけの場合、その人の中にエホバは住まわれないことは、だれにも明らかです。それに該当する概念、該当する認識、該当する信仰がない名前だけの場合、それは単なる単語に過ぎません。したがって、名前とは本体であり、本体を知ることであるのが分かります。

⑦ モーセの書には、次のようにあります。

「そのころエホバは、レビ族を別にされた。・・・それはエホバに仕え、エホバのみ名において、祝福させるためであった」(申命記 10:8)。

「エホバのみ名において祝福する」とは、前述したように、名前ではなく、エホバのみ名にかんする事柄です。エレミヤ書には、次のようにあります。

「エホバを呼ぶときのエホバのみ名は、エホバはわれらの正義である」(エレミヤ 23:6)。

上掲の「み名」とは、主の本体である正義を表わし、それがここでのテーマです。イザヤ書には、次のようにあります。

「エホバは、胎児のときからわたしを召し、わたしの母の胎を出た時から、わが(主の)名として挙げられた」(イザヤ 49:1)。

上掲文のテーマは主です。「主の名として挙げられた」とは、主の本体を教えられたということです。

⑧ 「名前」が本体 を意味することについては、ヨハネの黙示録に明らかに示されています。

「サルデスには、その衣を汚さなかった人が少数いる。かれらは、それに相応しい者として、白い衣をまとって、わたしといっしょに歩く。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、その名を〈いのち〉の書から消すことはしない。またわたしの父の前、天使たちの前で、わたしはその名を言いあらわす。・・・勝利を得る者には、・・・その上に、神のみ名と、わたしの神の都の名、すなわち、天界からわたしの神のみ力で下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを記す」(黙示録 3:4,5,12)。

上掲でも、「名」は名前ではなく、本体をあらわすことは明らかです。「〈いのち〉の書に書かれた名」とは、それ以外にはありません。同じく、

「父のみ前でその名を言いあらわす」や、「その上に、神のみ名と、都の名、新しい名とを記す」もそうです。また〈いのち〉の書と天界に、記されていると言われている名前もそうです(黙示録 13:8; 17:8ルカ 10:20)。

⑨ 文字上の意味で「名」は、天界では、一人が他の一人と識別される本体を示すしかありません。 だれにも明白なように、地上で各人の名前は、他者の概念にたいして、本体を浮き彫りにします。それによって他から識別されるわけです。来世では、その概念は残りますが、名前は消滅します。それが天使になると、なおさらです。したがって、「名」の内的意味は、本体であり、本体を認知することです。同じく、黙示録にあります。

「白馬に乗っている方の頭上には、多くの冠があって、その方以外にはだれも知らない名が記されていた。かれは血染めの衣を身にまとい、その名は『神の〈みことば〉』と呼ばれた」(黙示録 19:12,13)。

ここでも、「名」は神の〈みことば〉です。白馬に乗った方の本体が、明確な言葉で示されています。

⑩ エホバのみ名とは、その本体を知り認めることです。すなわち愛の善と信仰の真理のすべてです。主の次の〈みことば〉から明らかです。

「正義なる父よ、・・・わたしはあなたを知り、またかれらも、あなたがわたしをお遣わしになったことを知っています。わたしはかれらにみ名を知らせ、これからも知らせます。それはあなたがわたしを愛して下さったその愛が、かれらのうちにあり、またわたしも、かれらの中にいるためです」(ヨハネ 17:25,26)。

⑪ 「神のみ名」すなわち主のみ名とは、愛と仁愛にかんする信仰の教義すべてを指します。「そのみ名を信じる」とは、それを意味します。同じくヨハネは、それについて記しています。

「かれを受けいれた人、つまりその名を信じた人々には、かれは神の子らとなる力をお与えになった」(ヨハネ 1:12)。

「わたしの名によって願うなら、わたしはそれをかなえる。もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネ 14:13-15)。

「わたしの名において、父に願うなら、父はそれをあなた方にお与えになる。これを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ 15:16,17)。

「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」(マタイ 18:20)。

⑫ 「主のみ名において集まる」とは、愛と仁愛にかんする信仰の教義の中にある人たち、つまり愛と仁愛の中にある人を指します。同じく、

「あなたがたはわたしの名のため、すべての民族に憎まれる」(マタイ 10:22; 24:9,10マルコ 13:13)。

上掲では、「わたしの名のために」とあるのは、教義のためであることは明らかです。名前それ自身は価値がありませんが、名前が意味する事柄に価値があります。それは仁愛と信仰にかんする事柄です。マタイ福音書にある次の〈みことば〉から明らかです。

「わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって、多くの力あるわざを行ったではありませんか、と言うであろう。そのとき、わたしはかれらにこう言う。わたしは、あなたがたを知らない。不法を働く人たちは、わたしから去りなさい、と」(マタイ 7:22,23)。

以上から、ユダヤ人がエホバのみ名を信じ、キリスト教徒が主のみ名を信じるように、名前に信心の価値を置くことで、他の人より相応しくなるというわけではないことが分かります。名前には効力がありません。むしろ主が命じられたことを行うことで、それが「わたしの名を信じる」ということです。

主のみ名にしか救いはありませんし、相互愛しか教義はありません。それが信仰の本当の教義です。したがって、主以外にはないことです。あらゆる愛は、主おひとりから来るもので、それに由来する信仰もそうです。

  
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天界の秘義 #5321

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5321. 「第二の車にかれを乗せ」とは、善と真理の全教義が、かれに依存するというしるしを指します。それは後述のように、「車」が善と真理の教義を指すものだからです。「だれかを車に乗せる」とは、当該の教義がその人に依存するとのしるしです。

このことは、前もってパロの言った「あなたは、わたしの家を治めなさい。わたしの民はみな、あなたの口に接吻するでしょう。あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」(創世記 41:40)との言葉と関連があります。

善と真理の教義が、かれに依存するとは、次のとおりです。すなわち、「ヨセフ」は、主を表象しますが、それは霊的神性の面から見た場合です(3971,4669節)。これは、主の神人性に根ざす〈神の真理〉から見た場合でもあります(4723,4727節)。そして、〈霊的なものの天的なもの〉は、その〈神の真理〉に依存します。

善と真理のあらゆる教義は、〈神の真理〉から来ます。主こそ教義そのものだからであり、あらゆる教義は、主から発出するとともに、その教義は、主をテーマとするからです。

教義はすべて、愛の善と、信仰の真理をテーマとします。愛の善と信仰の真理は、主によるわけですから、主はその中に内在され、しかもその両方であられます。その結果、善と真理をテーマとする教義は、主おひとりをテーマにしており、しかもその発出源は、主の神人性であることが、明らかになります。

② どのような教義でも、神ご自身からきますが、これもかならず、神人性を通してなされます。これはつまり〈みことば〉です。〈みことば〉とは、最高の意味では、主の神人性に依存する〈神の真理〉です。〈神の真理〉は、神ご自身から、直接発出します。このことは、内奥天界における天使たちでも、理解できません。理由は、〈神の真理〉が無限であるためであり、こうしてあらゆる理解を越えるもの、天使の理解も越えるものだからです。

しかし、主の神人性から発出するものは、理解することができます。なぜなら、神人としての神を焦点に置いているからです。神人性の場合は、その人間性から、ある程度の概念を〈かたち〉作ることができます。主の人間性について形成された概念は、純真無垢の善からの流入があり、しかも仁愛の善のうちに浸っているかぎり、それがどのようなものかが受け入れられます。それは、ヨハネによる福音書の主の〈みことば〉が意味するところです。

「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる方が、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ 5:37)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「父を知る者は、子と、父を啓示しようとして、子が選んだ者の他は、だれもありません」(マタイ 11:27)。

③ 〈みことば〉の多くの個所で、車が登場します。しかし車が善と真理の教義事項、および教義事項にある科学知を意味するのを知っている人は、ほとんどいません。「車」が登場すると、自然的な歴史的物語としてしか考えず、霊的な概念が何一つ入ってこないからです。

「車の前を行くウマ」もそうです。「ウマ」とは、〈みことば〉では理知的なものを指しますから(2760-2762,3217節)、「車」というと、教義事項とその科学知を意味することになります。

④ 「車」とは、教会の教義事項であり、また科学知です。それはわたし自身、他生で、車を何度か目撃し、それが明らかです。また地界 の周辺右方にあるところでは、車とウマがいて、ウマ小屋が整然と並んでいます。そこでは、この世で教養人だった人たちが、散歩したり、談話したりしています。かれらにとって、生きるのは、そのような教養が目的でした。

かれらの目に、そのように見えたのは、比較的上位の諸天界にいる天使たちがきっかけになっています。天使たちが、理知的事柄や、教義事項とか、科学知などについて語ると、霊たちの目には、そのように見えます。

⑤ 車やウマには、そのような意味があります。その事実は、エリヤの話から実にはっきりと浮き彫りにされます。エリヤは、火の車と火のウマに乗って、天界へ向かう有様で見えました。エリヤもエリシャも、「イスラエルの車、その騎手」と呼ばれています。それについては、列王記下にあります。

「見よ、火の車と火のウマが、かれらをさえぎって現れた。エリヤはつむじ風とともに天にのぼった。エリシャはこれを見て叫んだ。わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と」(列王下 2:11,12)。

列王記下には、エリシャについて、次のようにあります。

「エリシャは、死にいたる病気にかかっていたとき、イスラエルの王ヨアシは、下ってきてかれの顔前で涙を流し、わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と言った」(列王下 13:14)。

エリヤも、エリシャも、〈みことば〉の主を表象しているため、そのように呼ばれました(創世記第18章序文、2762節,5247節終わり)。〈みことば〉それ自身は、善と真理の教義が中心になっています。教義はすべて、善と真理に由来するからです。それゆえ、エホバによって目が開かれた少年は、エリシャの周囲にあるものが見えました。

「山は、火のウマと火の車で、いっぱいに満ちていた」(列王下 6:17)。

「車」は、教義事項を示し、「ウマ」は、理知的なものを示します。これは〈みことば〉の他の個所からも、明らかです。

⑥ エゼキエル書には次のようにあります。

「あなた方は、わたしの食卓で、ウマと車、それに勇士と戦士のすべてを飽きるほど食べる。こうしてわたしは、わが栄光を諸民族に示す」(エゼキエル 39:20,21黙示録 19:18)。

以上は、主の到来をテーマにしています。上掲で、「ウマと車」とありますが、それは実際のウマや車のことでないことは、だれにでも明らかです。ウマや車を「主の食卓で、飽きるほど食べる」わけはないからです。ウマとか車が意味するもので、飽かされると言う意味です。それはすなわち、理知的なものであり、善と真理の教義事項です。

⑦ ウマや車は、次の引用個所でも、同じような意味をもっています。ダビデの書には次のようにあります。

「神の戦車は、幾千万もの平和部隊である。主はかれらの中におられ、シナイは聖所にある」(詩篇 68:17)。

同じく、

「エホバは、衣のように光をまとい、カーテンのように、諸天をひろげ、ご自分の高殿を水上で組み合わせ、ご自分の車として雲をたなびかせ、風の翼の上を歩かれる」(詩篇 104:2,3)。

イザヤ書には次のようにあります。

「海の荒野についての預言。・・・主は、わたしにこう言われた。見張りをする番人をおき、番人に報告させなさい、と。こうしてかれは、車と二人の騎手と、ロバの車とラクダの車を見た。かれは耳を傾けたが、それは注意深いものであった。見張りのライオンは叫んだ。主よ、わたしは昼間ずっと立っていました。わたしは毎夜、見張りをしていました。見よ、一人の男の車、二人の騎手がいた。・・・そしてバビロンは、滅びに滅んだと、かれは言った」(イザヤ 21:1,6-9)。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「そのときかれらは、全民族の中にいるあなた方の兄弟みなを、エホバへの供え物として連れてくる。ウマ、車、籠、ラバ、飛車に乗って、わが聖なる山エルサレムへ連れてくる」(イザヤ 66:20)。

同じく、

「見よ、エホバは火の中に来られる。その車は、旋風のようだ」(イザヤ 66:15)。

ハバクク書には次のようにあります。

「エホバを憤らせたのは、もろもろの川でしょうか。あなたがご自身のウマに乗り、あなたの車が救いなのに、あなたは川に向かって怒られ、海に向かって立腹されるのですか」(ハバクク 3:8)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「目をあげて見た。すると見よ、四台の車が、二つの山の間から出てきた。その山は青銅の山であった。第一の車には赤ウマ、第二の車には黒ウマ、第三の車には白ウマ、第四の車には、斑(まだら)のウマが着いていた」(ゼカリヤ 6:1-3)。

⑨ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの王座に座する王たち、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。王たちとその司、ユダの人、エルサレムの住人は、いつまでも、この町に住むであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「エルサレム」とは、主の教会のことですから、「いつまでも住む町」とは、エルサレムのことではありません(402,2117,3654節)。「この町の門から入る王たち」とは、実際の王のことでなく、教会の諸真理を意味します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節)。「司たち」とは、司のことではなく、最優先の真理を意味します(1482,2089,5044節)。

「ダビデの王座にすわる人」とは、主から発出する神的諸真理です(5313節)。「車とウマに乗る騎手」は、その神的諸真理由来の理知的なもの、および教義事項を指します。〈みことば〉の歴史の中には、車がしばしば登場します。〈みことば〉の歴史すべては表象であり、単語は含意的ですから、主のみ国とか、教会に関係ある事柄を指すため、ここでの「車」にもそのような意味があります。

⑩ 〈みことば〉の中では、対立する意味で用いられている場合も多く、そのようなとき、「車」は、悪と偽りの教義事項、さらにそれを確証するような科学知を指します。例えば、イザヤ書には、次のようにあります。

「助けを求めてエジプトに下り、ウマに頼る者は、わざわいである。かれらは車の数の多さに信頼し、おびただしい数の強靭(きょうじん)な騎手たちに信頼する。しかしイスラエルの聖なる方を仰がない」(イザヤ 31:1)。

同じく、

「あなたは、あなたの召使の手を用いて、主を冒涜して言った。わたしは多くの車を率いて山々の頂に登り、レバノンの奥へ行き、背丈の高い糸スギと、良質のモミの木を切り倒そう、と」(イザヤ 37:24)。

上掲は、アッスリヤの王の将軍ラブシャケの傲慢な言葉にたいする預言的応えです。エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、北方から水が上り、あふれる川となり、地とその富、町とその住民を水びたしにする。・・・地のすべての住民は、強者たちのウマのひずめの勝どきと、その車の轟音(ごうおん)と、その車輪のきしみ音で、嘆き悲しむであろう」(エレミヤ 47:2,3)。

⑪ エゼキエル書には次のようにあります。

「おびただしい数のウマで、その土煙があなたを覆う。騎手の勝どき、車輪と車の轟音で、あなたの石垣はゆらぐ。町の入口は壊され、門の中に入るからである。あなたの大通りはすべて、ウマのひずめで蹴散らされる」(エゼキエル 26:10,11)。

ハガイ書には次のようにあります。

「わたしは、国々の王座をくつがえし、諸民族の国々の力をつぶす。また車とそれに乗る者をくつがえし、ウマとその騎手たちは倒れる」(ハガイ 2:22)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、エフライムから車を断ち、エルサレムからウマを無くし、戦いの弓を断ち切る。しかし諸民族への平和を語るであろう」(ゼカリヤ 9:10)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「エジプトは、川のように上ってくる。その水は、河川のように揺れ動く。かれは言った。わたしは上っていき、地を覆い、町とその住民を滅ぼす。ウマは上って来い。車は狂うように走れ、と」(エレミヤ 46:8,9)。

⑫ 上掲での「ウマ」や「車」は、イスラエルの子らを追跡したエジプト人のウマと車です。そのウマと車を使って、パロはスフ海に入りましたが、そこで車輪が動かなくなりました。出エジプト記第14章の第6,7,9,17,23,25,26節、第15章第4、19節には、ウマと車がその記録の大部分を占めています。

これは、偽りの理知的なもの、教義事項、科学知と、教会の諸真理を転覆させ、消滅させるそれ由来の詭弁的推論を意味します。そのような事柄が殲滅(せんめつ)され、死んでいったことが、ここに記録されています。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.