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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #3993

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3993. 「その中からすべてぶちとまだらの家畜を移します」とは、「ぶちのもの」とは悪が混在するものであり、「まだらのもの」とは、偽りが混在するものですが、ラバンにあるそのような善と真理は、全部分離されるという意味です。

以上は、「移す」が分離するという意味になるからです。またここでは雌ヤギと子ヒツジを指す「家畜」は、善と真理を意味するためです(1824,3519節)。

さて、以上の部分と本章の後述の部分には、秘義が含まれています。ここに文字の上で現れる内容を越えた秘義がないなら、多くのことは、神の〈みことば〉の中に記録する値打ちがないはずです。

たとえば、ヤコブがぶちやまだらの雌ヤギや黒い子ヒツジを報酬として求めたこともそうです。ヤコブは、ハシバミやプラタナスの木の皮を剥いだ枝にある白い所を、水槽の中に、群れが熱くなったとき、ラバンの群れに向かって置いたことや、子ヒツジにかんしては、群れの顔をラバンの群れにあるしまのあるものと、黒いものとに向かわせたりしました。このようにして、善良なやり方でなく、悪い方法で富を得ました。

以上のようなことに神的なものは現れていません。しかし〈みことば〉は、その個々全体にわたり、一点一画まで神的です。もしその内容が人を救いと永遠の〈いのち〉に導くことを含んでいないなら、知っても役にたたないし、〈みことば〉が神的であると言っても、救いには役立ちません。

② 以上のことから、また他にもある同様のことから、だれもが結論として言えることは、ここに秘義が内在し、文字上の意味では違っても、内部にはいっそうの神聖なものが存在する事実です。内部にどのような意味があるかは、内的意味によらなければ、だれにも分かりません。つまり、天使たちがこれを、どのように感じ取っているかです。人は自然的な歴史の中にあるのにたいし、天使たちは、霊的意味のなかにあります。

両方の意味は、きわめて緊密に結ばれているにもかかわらず、お互いにどれほど隔たって見えるかは、後述の内容や、その他の事柄から、明白になります。ここにある秘義、および本章の後続部にある秘義は、以前、ラバンやヤコブについて述べたことから、ある程度知ることができます。つまり「ラバン」とは、純粋の諸善と諸真理が導入される手段となる善を意味し、「ヤコブ」は、真理の善を意味します。

しかしながら、霊的善に相応する自然的なものとは何か、知る人はわずかです。また霊的善とはどんなものか、そこに相応がなくてはならないなどを知る人は、いっそうわずかです。さらには、ある特定の善が、純粋の善や真理を導入するための手段に見える事実を知る人は、余計にわずかです。

だからこそ、以上に触れる上での秘義について説明するのは、容易ではありません。理性の陰に入ってしまい、他国語を話しているような感じになります。それについて、どれほど明確に説明しても、聞き手の理解を越えます。それがたとえ事実としても、〈みことば〉には、どのような内的意味が隠されているかを開き示すため、言わねばなりません。

③ ここでは最高の意味で、主ご自身の自然性が、どのようにして神化されたかをテーマにします。表象的な意味では、主がどのようにして人の自然性を再生させられるかをテーマにします。しかも主がどのようにして、人の自然性を人の準内部と相応させられるかです。人の準内部とは、肉体の死後生きる部分で、その際、人の霊と言われます。

人は肉体の絆から解放されると、骨や肉を除いた外部人間のすべてを伴っています。生前、時間の中に生きている間、人の内部が外部と相応関係をつくりあげていない場合、死後はもう手遅れです。内的意味におけるここでのテーマは、その両者が、主のみ力による再生によって、結び合わされることです。

④ これまでのテーマは、人の再生が可能になる前、人が受け入れ承認しなくてはならない共通の諸真理についてです。その諸真理とは、「レアと女奴隷から生まれたヤコブの十人の息子たち」です。その諸真理を受け入れ承認したあとの「ヨセフ」は、外部人間と準内部人間との結びつき、すなわち自然的人間と霊的人間との結びつきを意味します。

さて、順序から言えば、善の実りと真理の増加がテーマになり、これは結びつきが生まれるやいなや実現します。結びつきが緊密であればあるほど、それだけ実現も進みます。ヤコブが、ラバンのヒツジの群れを用いて、自分のため獲得したヒツジの群れがそれです。

〈みことば〉の他の箇所で何度もそうであったように、「ヒツジの群れ」は真理と善を意味します。また「ラバンのヒツジの群れ」は、前述のように、ラバンが表象する善がどのような性格かを示します。「ヤコブのヒツジの群れ」は、ラバンのヒツジの群れによって獲得した純粋な善と真理とを意味します。

⑤ それでは、純粋な善と真理を獲得するには、どうすればいいか、それについてここで記してみます。ただし、ぶちとは何か、まだらとは何か、黒とは何か、白とは何かについて、もし内的意味から知らなければ、決して分からないため、それについてここでまず触れておきます。ぶちや、まだらは、黒色や白色からできます。

「黒」はおおむね悪を意味します。とりわけ人のエゴです。エゴは悪以外の何ものでもないからです。「暗黒」は、偽りを意味し、とりわけ偽りの諸原理を指します。「白」の内的意味は、真理であり、固有の意味では、主の正義と功績を指し、それからくるものとして、人に備わる主の正義と功績です。この白色は、明白色とも言います。主のみ力による光によって輝くからです。

「白」はまた、反対の意味では、固有の正義、すなわち固有の功績 を示します。なぜなら、善の欠けた真理には、このような功績が付随しているからです。善を行っても、真理の善から行うのでない場合、つねに報われたいと思います。なぜなら、自分のために行っているからです。それに対し、善に根ざして真理を行うさい、その真理は、主からの光から照らしを受けます。こうして、「まだら」とは、偽りのまじった真理であり、「ぶち」とは、悪がまじった善であることが、明らかになります。

⑥ 来世でも、表現不可能ともいえる絢爛(けんらん)たる色彩が、実際に見えてきます(1053,1624節)。その色合いは、白と黒にあっての光と影の多様な調合から成り立っています。ただしその光は目前に現れるとはいえ、この世の光のようではありません。

天界における光は、その中に理知と英知を含んでいます。つまり主のみ力による神的理知が、天界では光として現れ、全天界を照らしています(2776,3138,3167,3190,3195,3222,3223,3225,3339-3341,3485,3636,3643,3862節)。また来世での陰は、陰として見えても、この世の陰とは異なります。天界での陰は、光の不在で、その結果、理知と英知の欠如になります。

さて、白と黒は、理知と英知を含む天界での光と、理知と英知の欠如である陰から成り立っています。したがって白と黒は、前述のようなものを意味することは明らかです。それで色とは、白と黒が土台になっている光と影の調合で、そこからくる多様性こそ、色彩と呼ばれます(1042,1043,1053節)。

⑦ 以上から、ぶち、すなわち斑点をもち、点で印され、黒と白で区別されているとは何か明らかです。つまり悪の混在する善を指します。同時に、まだらは、偽りの混在する真理を指します。それはラバンの善から、純粋な善と真理の導入を助けるため取られたものです。

しかしこの導入をどのようにして助けるかは、秘義に属します。前述のように、天界の光の中にいる人は、理知の中にるため、かれらの眼前では明瞭に映っていますが、この世の光の中にいる人々の眼前では、明瞭ではありません。再生して、この世の光が天界の光によって照らされている人は、別です。再生した人はみな、自分なりの自然的光明の中にあっても、天界の光によって、諸善と諸真理を見ています。なぜなら天界の光は、本人の視力を理知的にし、この世の光明は、本人の視力を自然的にするからです。

⑧ これがどんな様子かを簡単に述べておきます。人間には、純粋な善、すなわち悪が混在しない善は、与えられていないし、純粋な真理、すなわち偽りが混在しない真理は、与えられていません。人の意志は、悪以外の何ものでもありません。その悪から偽りが、本人の理性に絶えず流れ込んでいます。

なぜなら周知のとおり、人は、祖先が継続的に蓄積した悪を、遺伝的に引きずっているからです。その悪の蓄積から、人は実際に悪を生み出し、それを自分の悪にします。そして自分なりの悪を付加していきます。

ただし人がもっている諸悪には、各種各様のものがあります。善の混在をゆるさない悪があるとともに、善の混在をゆるす悪もあります。それは偽りについても同じです。そのようになっていなければ、人はだれも再生できません。

善や真理の混在をゆるさない悪や偽りとは、神への愛と、隣人への仁愛に反対するものです。憎しみ、復讐、残酷、自分に較べた他者への軽蔑です。また偽りの自己過信があります。善や真理の混在をゆるす悪や偽りは、神への愛と隣人への仁愛に反しないものです。例えば次の通りです。

⑨ だれかが他の人以上に自分を愛したとします。その愛がもとで、道徳的・社会的生活、科学や宗教の研究の中で、また地位名誉を得るため、また他の人以上の財産を築くため、ほかの人々より優れようと努力します。同時に神を認め、礼拝し、隣人への職務上の勤めを心から果たし、良心にしたがって正義と公正を行った場合、本人の自己愛にある悪には、善と真理が混在することが可能です。なぜなら、人のエゴでもある悪は、遺伝的に生まれついた悪で、もしそれを早めに取り除けば、本人の初期の〈いのち〉にある火を消し去ることができます。

しかし、人が他人以上に自分を愛し、その愛をもとにして他者を軽蔑し、自分を、崇拝に近いまでに敬わない者を憎み、そのため復讐や残酷な憎悪に喜びを感じるような場合、このような自己愛の悪には、善と真理が混在できません。まる反対だからです。

⑩ また一例をあげると、ある人が罪から清められたと信じたとします。水で汚れを洗ったように清められたと信じ、同時に償いを実行し、課せられた悔い改めの行いを果たし、罪の口頭告白のあと、聴罪師からの赦しを受け、聖餐式に通ったあと、新しい生活を送るようになった場合、その善と真理との情愛の中では、本人にある偽りは、善と混在できるようになります。しかしもし、以前同様の肉と現世の生活を送る場合、その偽りは、善の混在をゆるしません。

また人は善い意志からでなく、善い信仰によって救われると信じたとしても、善い意志をもち、善い行いをするなら、本人の偽りには、善と真理が添え結ばれることが可能です。しかし、善い意志をもたず、善い行いをしないなら、話は別です。

⑪ 人の死後のよみがえりを知らないか、復活を信じない人がいます。あるいは、知ってはいても、疑うか、否定に近い状態です。たとえそのようであっても、真理と善の中に生活した場合、善と真理が、本人の偽りと混在することが可能です。ところが、その偽りと悪の中に生きれば、本人の偽りに、善と真理が混在することはありません。正反対だからです。偽りは真理を破壊し、悪は善を壊してしまいます。

⑫ なお隣人、祖国、教会のための善益を目的にした真似事(まねごと) や策略 は、賢慮 になります。その中に混在する悪は、善と混在することが可能です。それは目的が善いからであり、目的のおかげです。ところが、真似事や策略が、悪事を目的にする場合、賢慮にはなりません。それこそ策謀 であり、騙し です。

このような騙しには、善はけっして結ばれることはできません。なぜなら騙しは、悪が目指す目的でもあり、人にある個々全体に、地獄を引き込むことになるからです。騙しは、悪を中心に据え、善を周辺に追いやります。その秩序は、地獄的秩序です。それ以外にも、無数に多くのことがあります。

⑬ 悪や偽りには、善や真理と結びつくものがあります。教義や教義項目の中に完全に異端的なものがたくさんありますが、どの異端教会に属する人の中にも、救われる人がいるのを見ても分かります。教会外の異教徒の中にも、主の教会が存在します。かれらは偽りの中にいても、仁愛の〈いのち〉をもって生きていれば、救われます(2589-2604節)。結局、悪には善と混在できるものがあり、偽りにも真理と混在できるものがあるからです。

善と混在できる悪にしても、真理と混在できる偽りにしても、主によって不思議にも秩序づけられています。ただし両者が結びつくことはないし、一体化することはなく、むしろ添え結ばれ、適応している状態です。中心に真理を伴った善が存在し、段階的にまわりの周辺に、悪や偽りが存在します。

以上は、その事実を示すものです。白と黒は、中央からの光が多様に変化しているように混在しています。これが天的秩序です。「ぶちとまだら」には、そのような内的意味が存在します。

  
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天界の秘義 #3858

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3858. ここからは、ヤコブの十二人の息子について触れていきます。そして、かれらはイスラエル十二族の父祖の名を得ることになります。その前にここで、「部族」とは何か、なぜ十二なのかについて述べます。

以上に隠された秘義については、知る人はいません。〈みことば〉の歴史はそのまま歴史で、そこに神的なものがあるなど信じられません。しかし事柄が聖なるものに及ぶとき、その適用を助ける神的なものが存在します。

十二族と言えば、イスラエル国民が、区別された民族、共通の部族に分けられたためと信じられています。しかしこれは信仰と愛の普遍的分与、すなわち諸天界と地上における主のみ国に属する事柄で、各部族にある特定の普遍的特長を意味します。各部族がもつ意味は、部族の命名元であるヤコブの十二人の息子について扱うところで、やがて明らかになります。

一般的に言えば、「十二族」とは、真理と善、信仰と愛の教義全体を指します。真理と善、信仰と愛は、主のみ国を造ります。真理すなわち信仰に関する事柄が、そこでの思考すべてに及び、善すなわち愛に関する事柄が、そこでの情愛すべてに及びます。ユダヤ教会は、主のみ国を表象するため設立されたからこそ、ユダヤ国民の十二族区分は、そのような意味をもつことになります。以上は、従来まで不明の秘義に属します。

② 「十二」は、おおむね全体 を意味します(577,2089,2129,2130,3272節)。「部族」は、真理と善、信仰と愛に属することを意味します。したがって、「十二族」というと、以上のすべてを指します。個別的に取り扱うまえ、ここで〈みことば〉によって確証を得ておきます。ヨハネは、次のように記しています。

「聖なる都、新しいエルサレムには、十二の門があり、その門には、十二人の天使がいて、イスラエルの子らの十二部族の名が記されてあった。・・・都の城壁には十二の土台があり、子ヒツジの十二使徒の十二の名が記されていた。・・・測り竿で都を測ると一万二千丁あった。・・・城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、天使の尺度による。・・・十二の門は、十二の真珠である」(黙示録 21:12,14,16,17,21)。

「聖なる都」、すなわち新しいエルサレムとは、主の新しい教会を指していることは、上掲の語句の一つひとつから明らかです。上掲に先行する部分では、終末を目前にした教会の状態を扱っており、ここでは新しい教会をテーマにします。したがって、「門」「城壁」「土台」とは教会の門・城壁・土台を指し、仁愛と信仰にかんする事柄です。なぜなら、仁愛と信仰が教会をつくるからです。

③ したがって、だれにも明らかのは次の通りです。「十二」と幾度も出てきますが、これは「部族」であれ「使徒」であれ、十二の数そのものでも、部族や、使徒を指しているのでもありません。「十二」とは、577,2089,2129,2130,3272節を参照すれば分かるように、全貌(一つの複合として見た全体) を表わします。

百四十四についても同じです。これは十二の十二倍です。十二が全体を意味するため、「十二族」というと、教会にかんする全体を指します。前述のように、真理と善、信仰と愛の全部です。同様に、「十二使徒」とは、やはり教会の全体です。信仰と愛の全体が表象されていることは、2129,3354,3488,3857節を参照してください。

さらにまた同じ数が、「人間の尺度、すなわち天使の尺度」とあります。これは真理と善の状態を意味します。「尺度」とは、状態を意味することは、3104節を参照してください。「人間」とは、教会の人間です。これは人間の意味から分かります(478,479,565,768,1871,1894節)。さらに主のみ国は巨大人と言われます。これは主の力による善と真理に由来するものです。これについては、章の終わりに触れています(3624-3649,3741-3750節)。「天使」についても、同じです(1705,1754,1925,2821,3039節)。

④ 同じように、新しいエルサレムについては、ヨハネの書にも、旧約聖書の預言書にもあります。これはイザヤ 65:18,19以降、ゼカリヤ 14章にあるように、主の新しい教会を指します。とりわけエゼキエル書40-48章では、新しいエルサレム、新しい神殿、新しい地が浮き彫りにされ、内的意味では、諸天界における主のみ国、地上における主のみ国を指しますが、これは教会です。

以上の箇所では、「地」、「エルサレム」、「神殿」および、そこで示されている全体には、いかなる意味があるかが、他の箇所以上に明白です。

また「十二族」の意味も明白になります。地の分割については、「部族にしたがって行われる嗣業」について触れています。同時に、「都」、「城壁」、「土台」、「門」、そこにある「神殿」のすべてに触れています。諸部族について記されている事柄だけを、ここに取り上げます。

「主エホビは言われる。イスラエルの十二部族に、嗣業として与える土地の境は次の通り。・・・あなた方はイスラエルの部族に従って、土地を分割しなさい。あなた方は籤(くじ)で分け、あなた方の中での寄留の他国人にも分けて、嗣業としなさい。・・・イスラエルの部族の真中で、あなた方とともに籤で嗣業を分けなさい」(エゼキエル 47:13,21-23)。

「土地にかんしては、イスラエルでは、所有のために司を置きなさい。司たちは、わたしの民をこれ以上苦しめてはならない。部族にしたがって、イスラエルの家に土地を与えなさい」(エゼキエル 45:8)。

そこに挙げられてある各部族に、どのように嗣業を配分したかは、エゼキエル 48:1以降を参照してください。

また、イスラエルの部族の名前にしたがって、町に門があったことについては、同じく、エゼキエル書 48:31-34を参照のこと。

⑤ 上掲で部族とあるのは、実際の部族を指していないことは明らかです。なぜなら当時、十の部族は全地にあまねく分散していて、その後戻ったわけはでなく、また戻れませんでした。なぜなら、異邦人になってしまったからです。

ただし、それぞれの部族がどのようにして地を受け継いだか、各部族の境界はどうだったかを述べています。つまりダン族の境界線(第2節)、アセル族の境界線(第3節)、さらにナフタリ族、マナセ族、エフライム族、ルベン族、ユダ族の境界線はどこか、またレビ族の嗣業について触れ、ベンヤミン族、シメオン族、イッサカル族、ゼブルン族、ガド族の境界線はどこかを記します(エゼキエル 48:4-29)。

さらにその箇所では、イスラエルの部族名毎に、十二の門があり、ルベン、ユダ、レビの三つの門は北向き、ヨセフ、ベンヤミン、ダンの三つの門は東向き、シメオン、イッサカル、ゼブルンの三つの門は南向き、ガド、アセル、ナフタリの三つの門は、西向きになっています(上掲書48:31-34)。

⑥ したがって、「十二族」とは、主のみ国に属するすべて、信仰と愛のすべてを指すことが分かります。前述のように、主のみ国をつくるのは、信仰と愛のすべてです。十二族が主のみ国のすべてを意味するわけで、十二族が行う「宿営」や「出発」も主のみ国を表象することになります。それについて、モーセは次のように言います。

「会見の幕屋のまわりに、部族にしたがって宿営すること。東には、ユダ、イッサカル、ゼブルン。南の方では、ルベン、シメオン、ガド。西の方では、エフライム、マナセ、ベンヤミン。北の方では、ダン、アセル、ナフタリである。かれらは宿営の順序で、出発した」(民数 2:1-終わり)。

以上は、主のみ国の表象であることは、バラムの預言によって、明らかに言われています。

「バラムは目を上げ、イスラエルが部族ごとに宿営しているのを見た。その時、神の霊がかれに臨み、かれは託宣を口にして言った。・・・ヤコブよ、あなたの幕屋はすばらしい。イスラエルよ、あなたの住居はすばらしい。樹木の植えられた谷間、川のほとりの庭園、エホバの植えられたアロエ、水のほとりの糸杉のようである」(民数 24:2,3,5,6)。

バラムは、エホバからの言葉を口にしました。民数記 22:8,18,19,35,38; 23:5,12,16,26; 24:2,13で、明白に言われている通りです。

⑦ カナンの地が部族ごとに相続されたことは、どのような表象かは、以上で分かります。それについてモーセも言っています。

「イスラエルの子らの全会衆を、その父祖の家にしたがって調べ、イスラエルの部隊に入れる二十歳以上の者を数えること。土地は籤によって分配されるが、かれらの父祖の部族の名前にしたがって、嗣業を受ける」(民数 26:2,7-56; 33:54; 34:19-29)。

ヨシュアは、「部族にしたがって籤を引き」、土地を分配しました(ヨシュア 13; 15-19章)。これは前述のように、主のみ国を表象することは、一語一語から明らかです。カナンが主のみ国を指していたことは、1585,1607,3038,3481,3705節を参照してください。

⑧ 「部隊にしたがって宿営し、部隊にしたがって出発した」(民数記 2:4,6,8,11,13,15,19,21,22,23,26,28,30)とあるように、「部隊(軍隊)」と呼ばれています。「部隊」も同じく真理と善を意味することは、3448節を参照してください。「主」は、大能のエホバ、万軍のエホバと呼ばれ(3448節)、またエジプトを出るとき、モーセは、「エホバの部隊」と命名しました。

「四百三十年の終わりにいたり、ちょうどその日に、エホバの全部隊は、エジプトの地を出た」(出エジプト 12:41)。

イスラエルの子らが、エジプトでどうだったか、また荒野でどうだったかは周知のとおりです。「エホバの部隊」と言われたのも、表象以外の目的はありません。かれらには善も真理もなく、全民族の中でも最悪の民族でした。

⑨ アロンには、ウリムとトンミムと言う胸当てがあり、それにあった十二部族の名前は何を意味したかが分かります。モーセはそれについて言います。

「そこには十二の宝石が四列に並んでいる。・・・その宝石は、イスラエルの子らの名前にしたがって十二ある。各部族の名前の上に、それぞれの印が刻まれている」(出エジプト 28:17,21; 39:14)。

「アロン」は主の神的祭司職を表わします。したがって、アロンが身につけているものは、すべて神の天的なものや霊的なものを意味します。それがどんな意味をもつかは、神なる主の慈しみに頼って、当該の箇所で述べます。

胸当ては、最も聖とされているため、主への愛と信仰にかんする全体を表わします。それがウリムとトンミムです。宝石には、名前が刻印されていました。一般的に「石」は、真理を意味し(1298,3720節)、「宝石」は、善から輝きでる真理を意味します(114節)。

各部族の名前は、それなりの性格を表わしますから、部族毎に、それぞれ特殊な石が定められていました(出エジプト 28:17-20; 39:10-13)。石は、固有の色や透明度によって、各部族がもつ性格を表現しました。したがって、エホバすなわち主は、ウリムとトンミムを通して、応答なさいました。

⑩ エポデの両肩の上にある二つの縞めのうも、同じです。ただし胸当てにある十二の宝石より、程度は下がります。「両肩」は、あらゆる能力、つまりは主の全能をあらわします(1085節)。「胸」、つまり「心臓と肺臓」は、神的な天的・霊的愛を、「心臓」は天的神性、「肺臓」は霊的神性を示すことは、3635節を参照してください。また巨大人をテーマにする本章の終わりには、巨大人と心臓領域および肺臓領域とのあいだの相応について扱っています。エポデの両肩の上にある二つの石については、モーセの書に次のように記されています。

「二つの縞めのうを取り、その上にイスラエルの子らの名を刻みなさい。一つの石に六つの名を、もう一つの石に残り六つの名を、時代順に刻みなさい。・・・二つの石をエポデの肩につけ、イスラエルの子らの記念の石としなさい」(出エジプト 28:9-11,12; 39:6,7)。

⑪ 「部族」は真理と善、あるいは信仰と愛にかんすることを意味し、各部族は、ある種の普遍的なものを指し、「レビ族」は愛を示すことは、第29章34節の説明で明らかになるはずです。したがって、会見の幕屋の中には、各部族毎に一本ずつ杖が置かれ、しかもレビ族の杖だけは、アーモンドの花を咲かせたのは、なぜかが分かります。モーセはそれについて記しています。

「十二本の杖を取り、かれらの父祖の家の頭に、杖を一本ずつ取り、・・・それを会見の幕屋の中に置き、レビの杖にはアロンの名を記せ。・・・アロンの杖はその真中に置かれていた。・・・翌日、見ると、レビ族のアロンの杖が芽をだし、花を咲かせ、アーモンドの実を結んでいた」(民数 17:2-8)。

主のみ国では、愛こそ万事に越えて、本質であり中心であるため、実を結ぶことを意味します。その上にアロンの名前があったのは、アロンが主の神的祭司職の面から見て、主を表象しているからです。主の祭司職は、神の善、および神の善からくる神の真理を表わします(1728,2015,3670節)。

⑫ 以上で、これから引用する箇所で、「部族」および「十二族」が何を意味するかがよく分かってきます。ヨハネの書にあります。

「わたしは、刻印された者の数を聞いた。それは、イスラエルの子らの全部族の中、刻印された者は、十四万四千人いた。ユダの部族の中、一万二千人が刻印され、ルベンの部族の中一万二千人、ガドの部族の中一万二千人、アセルの部族の中一万二千人、ナフタリの部族の中一万二千人、マナセの部族の中一万二千人、シメオンの部族の中一万二千人、レビの部族の中一万二千人、イッサカルの部族の中一万二千人、ゼブルンの部族の中一万二千人、ヨセフの部族の中一万二千人、ベンヤミンの部族の中一万二千人が刻印された」(黙示 7:4-8)。

モーセの書にあります。

「永遠の日を覚え、代々の年を覚えておきなさい。・・・いと高き者は、人の子らを分け、諸民族にその嗣業を与えられたが、そのとき、イスラエルの子らの数にしたがって諸国民の境を定められたのである」(申命記 32:7,8)。

ダビデの書にあります。

「一箇所に集まって建てられた町エルサレムよ、諸部族、エホバの部族は、そこに上って来て、エホバのみ名をたたえることは、イスラエルの証しである」(詩篇 122:3,4)。

⑬ ヨシュア記にあります。

「全地の主の契約の箱が、あなた方の面前でヨルダン川を渡るとき、各部族から一人ずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。全地の主なるエホバの箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダンの水の中に踏みとどまる時、ヨルダンの水は流れをせきとめられ、・・・流れはうず高くなる」(ヨシュア 3:11-17)。

また、「ヨルダンの中で、祭司たちが足を踏みとどめた所から、石十二を取り、それを携えて渡りなさい。・・・イスラエルの部族の数にしたがって、一個の石を取り上げ、肩にのせて運びなさい。これは印となる。・・・ヨルダンの水がせきとめられたのである。・・・ヨシュアはまた、ヨルダンの真中で、契約の箱をかつぐ祭司たちの足が踏みとどまった所に、十二の石を立てた」(ヨシュア 4:1-9)。

また、「エリヤは、あなたの名はイスラエルになるとの〈みことば〉がヤコブに与えられたため、ヤコブの子らの部族の数ごとに、十二の石を取って、エホバの名のために祭壇を築いた」(列王上 18:31,32)。

⑭ 「部族」とは、愛の善と信仰の真理を指すことは、マタイによる福音書にある主の〈みことば〉から分かります。

「そのとき、人の子の印が天に現れる。またそのとき、地の全部族は嘆き、力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを人々は見る」(マタイ 24:30)。

「地の全部族が嘆く」とは、真理の承認も、善の〈いのち〉もないことです。代の終わりがテーマだからです。同じく、ヨハネの書には次のようにあります。

「見よ、かれは雲に乗って来られる。すべての人の目、とくにかれを刺しとおした者たちは、かれを仰ぎ見る。また地上の諸部族はみな、かれのため嘆く」(黙示 1:7)。

「天の雲に乗って来られる」にはどんな意味か、創世記第18章序を参照してください。それ以外にも、「十二」について、わたしが体験的に示されたことを参照してください(2129,2130節)。

⑮ 「部族」とは、信仰と愛に関する万事ですが、原語の単語では、勺や杖を示します。「勺」は、「杖」と同様、主の神的慈しみに由来する能力を表わすことは、他の箇所で説明します。それで部族名は、諸善と諸真理の中に、主起源の全能力が内在していることを指します。天使のことを「能力」と命名し、天使を「主導権」と言いました。信仰と愛を最優先する者こそ、主導者(君、司) だったからです。イシマエルから十二人の君(または司)たちが出る(創世記 25:162089節参照)とあり、また各部族を統率したのは司だったわけです(民数記 7:1-終わり;13:4-16)。

⑯ 今まで十二族について触れてきたことから、後に使徒と呼ばれた主の弟子は、数が十二人いたのはなぜか分かります。それは部族の場合と同様、善と真理から見た主の教会を表象しているからです(2129,3354,3488,3857節)。

「ペテロ」は信仰を表わします。「ヤコブ」は仁愛を表わします。「ヨハネ」は仁愛の業を表わします。それについては、第十八章の序、第二十二章の序、および3750節を参照してください。主がかれらについて、またかれらと語られたことからも、明らかです。

  
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