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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #5321

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5321. 「第二の車にかれを乗せ」とは、善と真理の全教義が、かれに依存するというしるしを指します。それは後述のように、「車」が善と真理の教義を指すものだからです。「だれかを車に乗せる」とは、当該の教義がその人に依存するとのしるしです。

このことは、前もってパロの言った「あなたは、わたしの家を治めなさい。わたしの民はみな、あなたの口に接吻するでしょう。あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」(創世記 41:40)との言葉と関連があります。

善と真理の教義が、かれに依存するとは、次のとおりです。すなわち、「ヨセフ」は、主を表象しますが、それは霊的神性の面から見た場合です(3971,4669節)。これは、主の神人性に根ざす〈神の真理〉から見た場合でもあります(4723,4727節)。そして、〈霊的なものの天的なもの〉は、その〈神の真理〉に依存します。

善と真理のあらゆる教義は、〈神の真理〉から来ます。主こそ教義そのものだからであり、あらゆる教義は、主から発出するとともに、その教義は、主をテーマとするからです。

教義はすべて、愛の善と、信仰の真理をテーマとします。愛の善と信仰の真理は、主によるわけですから、主はその中に内在され、しかもその両方であられます。その結果、善と真理をテーマとする教義は、主おひとりをテーマにしており、しかもその発出源は、主の神人性であることが、明らかになります。

② どのような教義でも、神ご自身からきますが、これもかならず、神人性を通してなされます。これはつまり〈みことば〉です。〈みことば〉とは、最高の意味では、主の神人性に依存する〈神の真理〉です。〈神の真理〉は、神ご自身から、直接発出します。このことは、内奥天界における天使たちでも、理解できません。理由は、〈神の真理〉が無限であるためであり、こうしてあらゆる理解を越えるもの、天使の理解も越えるものだからです。

しかし、主の神人性から発出するものは、理解することができます。なぜなら、神人としての神を焦点に置いているからです。神人性の場合は、その人間性から、ある程度の概念を〈かたち〉作ることができます。主の人間性について形成された概念は、純真無垢の善からの流入があり、しかも仁愛の善のうちに浸っているかぎり、それがどのようなものかが受け入れられます。それは、ヨハネによる福音書の主の〈みことば〉が意味するところです。

「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる方が、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ 5:37)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「父を知る者は、子と、父を啓示しようとして、子が選んだ者の他は、だれもありません」(マタイ 11:27)。

③ 〈みことば〉の多くの個所で、車が登場します。しかし車が善と真理の教義事項、および教義事項にある科学知を意味するのを知っている人は、ほとんどいません。「車」が登場すると、自然的な歴史的物語としてしか考えず、霊的な概念が何一つ入ってこないからです。

「車の前を行くウマ」もそうです。「ウマ」とは、〈みことば〉では理知的なものを指しますから(2760-2762,3217節)、「車」というと、教義事項とその科学知を意味することになります。

④ 「車」とは、教会の教義事項であり、また科学知です。それはわたし自身、他生で、車を何度か目撃し、それが明らかです。また地界 の周辺右方にあるところでは、車とウマがいて、ウマ小屋が整然と並んでいます。そこでは、この世で教養人だった人たちが、散歩したり、談話したりしています。かれらにとって、生きるのは、そのような教養が目的でした。

かれらの目に、そのように見えたのは、比較的上位の諸天界にいる天使たちがきっかけになっています。天使たちが、理知的事柄や、教義事項とか、科学知などについて語ると、霊たちの目には、そのように見えます。

⑤ 車やウマには、そのような意味があります。その事実は、エリヤの話から実にはっきりと浮き彫りにされます。エリヤは、火の車と火のウマに乗って、天界へ向かう有様で見えました。エリヤもエリシャも、「イスラエルの車、その騎手」と呼ばれています。それについては、列王記下にあります。

「見よ、火の車と火のウマが、かれらをさえぎって現れた。エリヤはつむじ風とともに天にのぼった。エリシャはこれを見て叫んだ。わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と」(列王下 2:11,12)。

列王記下には、エリシャについて、次のようにあります。

「エリシャは、死にいたる病気にかかっていたとき、イスラエルの王ヨアシは、下ってきてかれの顔前で涙を流し、わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と言った」(列王下 13:14)。

エリヤも、エリシャも、〈みことば〉の主を表象しているため、そのように呼ばれました(創世記第18章序文、2762節,5247節終わり)。〈みことば〉それ自身は、善と真理の教義が中心になっています。教義はすべて、善と真理に由来するからです。それゆえ、エホバによって目が開かれた少年は、エリシャの周囲にあるものが見えました。

「山は、火のウマと火の車で、いっぱいに満ちていた」(列王下 6:17)。

「車」は、教義事項を示し、「ウマ」は、理知的なものを示します。これは〈みことば〉の他の個所からも、明らかです。

⑥ エゼキエル書には次のようにあります。

「あなた方は、わたしの食卓で、ウマと車、それに勇士と戦士のすべてを飽きるほど食べる。こうしてわたしは、わが栄光を諸民族に示す」(エゼキエル 39:20,21黙示録 19:18)。

以上は、主の到来をテーマにしています。上掲で、「ウマと車」とありますが、それは実際のウマや車のことでないことは、だれにでも明らかです。ウマや車を「主の食卓で、飽きるほど食べる」わけはないからです。ウマとか車が意味するもので、飽かされると言う意味です。それはすなわち、理知的なものであり、善と真理の教義事項です。

⑦ ウマや車は、次の引用個所でも、同じような意味をもっています。ダビデの書には次のようにあります。

「神の戦車は、幾千万もの平和部隊である。主はかれらの中におられ、シナイは聖所にある」(詩篇 68:17)。

同じく、

「エホバは、衣のように光をまとい、カーテンのように、諸天をひろげ、ご自分の高殿を水上で組み合わせ、ご自分の車として雲をたなびかせ、風の翼の上を歩かれる」(詩篇 104:2,3)。

イザヤ書には次のようにあります。

「海の荒野についての預言。・・・主は、わたしにこう言われた。見張りをする番人をおき、番人に報告させなさい、と。こうしてかれは、車と二人の騎手と、ロバの車とラクダの車を見た。かれは耳を傾けたが、それは注意深いものであった。見張りのライオンは叫んだ。主よ、わたしは昼間ずっと立っていました。わたしは毎夜、見張りをしていました。見よ、一人の男の車、二人の騎手がいた。・・・そしてバビロンは、滅びに滅んだと、かれは言った」(イザヤ 21:1,6-9)。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「そのときかれらは、全民族の中にいるあなた方の兄弟みなを、エホバへの供え物として連れてくる。ウマ、車、籠、ラバ、飛車に乗って、わが聖なる山エルサレムへ連れてくる」(イザヤ 66:20)。

同じく、

「見よ、エホバは火の中に来られる。その車は、旋風のようだ」(イザヤ 66:15)。

ハバクク書には次のようにあります。

「エホバを憤らせたのは、もろもろの川でしょうか。あなたがご自身のウマに乗り、あなたの車が救いなのに、あなたは川に向かって怒られ、海に向かって立腹されるのですか」(ハバクク 3:8)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「目をあげて見た。すると見よ、四台の車が、二つの山の間から出てきた。その山は青銅の山であった。第一の車には赤ウマ、第二の車には黒ウマ、第三の車には白ウマ、第四の車には、斑(まだら)のウマが着いていた」(ゼカリヤ 6:1-3)。

⑨ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの王座に座する王たち、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。王たちとその司、ユダの人、エルサレムの住人は、いつまでも、この町に住むであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「エルサレム」とは、主の教会のことですから、「いつまでも住む町」とは、エルサレムのことではありません(402,2117,3654節)。「この町の門から入る王たち」とは、実際の王のことでなく、教会の諸真理を意味します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節)。「司たち」とは、司のことではなく、最優先の真理を意味します(1482,2089,5044節)。

「ダビデの王座にすわる人」とは、主から発出する神的諸真理です(5313節)。「車とウマに乗る騎手」は、その神的諸真理由来の理知的なもの、および教義事項を指します。〈みことば〉の歴史の中には、車がしばしば登場します。〈みことば〉の歴史すべては表象であり、単語は含意的ですから、主のみ国とか、教会に関係ある事柄を指すため、ここでの「車」にもそのような意味があります。

⑩ 〈みことば〉の中では、対立する意味で用いられている場合も多く、そのようなとき、「車」は、悪と偽りの教義事項、さらにそれを確証するような科学知を指します。例えば、イザヤ書には、次のようにあります。

「助けを求めてエジプトに下り、ウマに頼る者は、わざわいである。かれらは車の数の多さに信頼し、おびただしい数の強靭(きょうじん)な騎手たちに信頼する。しかしイスラエルの聖なる方を仰がない」(イザヤ 31:1)。

同じく、

「あなたは、あなたの召使の手を用いて、主を冒涜して言った。わたしは多くの車を率いて山々の頂に登り、レバノンの奥へ行き、背丈の高い糸スギと、良質のモミの木を切り倒そう、と」(イザヤ 37:24)。

上掲は、アッスリヤの王の将軍ラブシャケの傲慢な言葉にたいする預言的応えです。エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、北方から水が上り、あふれる川となり、地とその富、町とその住民を水びたしにする。・・・地のすべての住民は、強者たちのウマのひずめの勝どきと、その車の轟音(ごうおん)と、その車輪のきしみ音で、嘆き悲しむであろう」(エレミヤ 47:2,3)。

⑪ エゼキエル書には次のようにあります。

「おびただしい数のウマで、その土煙があなたを覆う。騎手の勝どき、車輪と車の轟音で、あなたの石垣はゆらぐ。町の入口は壊され、門の中に入るからである。あなたの大通りはすべて、ウマのひずめで蹴散らされる」(エゼキエル 26:10,11)。

ハガイ書には次のようにあります。

「わたしは、国々の王座をくつがえし、諸民族の国々の力をつぶす。また車とそれに乗る者をくつがえし、ウマとその騎手たちは倒れる」(ハガイ 2:22)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、エフライムから車を断ち、エルサレムからウマを無くし、戦いの弓を断ち切る。しかし諸民族への平和を語るであろう」(ゼカリヤ 9:10)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「エジプトは、川のように上ってくる。その水は、河川のように揺れ動く。かれは言った。わたしは上っていき、地を覆い、町とその住民を滅ぼす。ウマは上って来い。車は狂うように走れ、と」(エレミヤ 46:8,9)。

⑫ 上掲での「ウマ」や「車」は、イスラエルの子らを追跡したエジプト人のウマと車です。そのウマと車を使って、パロはスフ海に入りましたが、そこで車輪が動かなくなりました。出エジプト記第14章の第6,7,9,17,23,25,26節、第15章第4、19節には、ウマと車がその記録の大部分を占めています。

これは、偽りの理知的なもの、教義事項、科学知と、教会の諸真理を転覆させ、消滅させるそれ由来の詭弁的推論を意味します。そのような事柄が殲滅(せんめつ)され、死んでいったことが、ここに記録されています。

  
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天界の秘義 #5044

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5044. 「獄屋の管理人は」とは、試練・誘惑の状態において、真理が統治することを指します。「管理人」とは、主要な真理、つまりは統治する真理を意味するためであり、これについては、以下で述べます。

「獄屋」とは、偽りの荒廃、しかも試練・誘惑を意味します(5038,5039,5043節)。はじめに試練・誘惑における統治する真理とは何かを述べておきます。試練・誘惑に遭遇する人には、かならず主から真理の流入があります。これは人の考えを支配統治するものです。その流入は、当人が疑いに陥ったり、絶望に瀕したりする度毎に導きを与えます。その統治的真理とは、本人が〈みことば〉から教わり、自分が確信した真理です。

そのとき、他の諸真理も思い出されますが、本人の内部を統治するようなものではありません。統治的真理と言っても、理性の目前に姿をあらわさないこともあります。漠然とした薄闇に隠れながらも統治しています。主の神性は、その暗がりに流入を注がれ、こうして本人の精神の内部を維持されます。したがって、その暗がりが光に照らされると、試練・誘惑の中にいる人は慰めを得、心を軽くされます。

② 主が試練・誘惑にある人々を統治される際、その手段となるには、上掲の真理それ自身ではなく、真理への情愛です。神性の流入は、ただ情愛に属することがらの中にしか注がれません。人の内部に植えられ根づかされた真理は、情愛をとおして植えつけられ、根づかせられます。情愛によらないで、植えられ根づかされることはありません。

情愛をとおして植えられ根づかされた真理は、そこに固着し、情愛をとおして想起されます。こうして真理が想起されるとき、真理に結びついた情愛が姿を見せます。その情愛は、人にとっての相互補足的情愛です。

試練・誘惑に遭遇する人には、以上のようなことが起こります。したがって人が成人に達し、統治可能な真理を吸収するようになるまでは、霊的試練・誘惑にさらされることは許されません。それ以前に試練・誘惑にさらされると、屈服してしまいます。そうなると、本人にとって、後の状況は、以前より悪くなります。

ここで、「獄屋の管理人」が演じる統治的真理、すなわち試練・誘惑の状態における統治的真理とは何かが、明らかになります。

③ 「管理人」とは、主要真理を指します。内的意味では、「王」は、真理それ自身を指します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4789,4966節)。

「管理人」は、王の管理人であり、王の真理に属する主要なものを指します。管理人(司、長) には、そのような意味があることは、1482,2089節を参照。その箇所では、〈みことば〉の箇所から示したわけではないため、ここに引用します。イザヤ書には次のようにあります。

「一人の男の子がわれわれのために生まれた。われわれに息子が与えられた。かれの肩には主権 があり、・・・平和の君 と称えられる。その主権と平和とは、終わりがないであろう」(イザヤ 9:6,7)。

上掲は主についての言及です。「その肩には主権がある」とは、諸天界におけるあらゆる〈神の真理〉は、その方によることを指します。諸天界は、善に由来する諸真理にしたがって、主権(支配、管理、統治)が区分されています。そのため、天使たちは、主権者 と呼ばれています。

「平和」とは、諸天界における至福の状態を指します。それは末端部による善と真理を感化します(3780節)。そのため主は、「平和の君」と称えられます。「その主権と平和とは、終わりがない」とは、そのことです。

④ 同じく、イザヤ書には次のようにあります。

「ゾアンの君たちも、賢者たちも、パロの議官たちも愚かである。・・・あなた方は、どうしてパロにむかい、わたしは賢者たちの息子、古代の王たちの息子であると言えよう。・・・ゾアンの君たちは愚かとなり、ノプの君たちは騙(だま)された。諸部族の隅の石であるエジプトを迷わせた」(イザヤ 19:11,13)。

上掲は、教会の科学知を意味するエジプトをテーマにしています(4749節)。これは、秩序の末端である自然的真理です。そのため、ここではエジプトを「諸部族の隅の石」と呼んでいます。「部族」とは、真理の総体を一括して示すものです(3858,3862,3926,3939,4060節)。

上掲での「エジプト」は、教会の諸真理を倒錯させた科学知を意味します。「ゾアンの君たち、またノプの君たち」とあるように、その諸真理は、秩序の末端部で虚偽化された諸真理です。

「古代の王たちの息子」と自称しているのは、その科学知が古代教会の諸真理に由来するものだからです。前述の「王たち」とは、その諸真理を指し、「古代の王たち」とは、古代教会の諸真理です。

⑤ 同じくイザヤ書からです。

「アッスリヤは正しくは考えず、その心も正しいことを思わず、むしろその心を滅ぼそうとし、少なからぬ諸民族を倒そうとする。かれは言う。わが君たちはみな王ではないか、と」(イザヤ 10:7,8)。

「アッスリヤ」とは、神の諸真理を詭弁的に推論することであり、それに由来する偽りであり、結果的には、倒錯した合理性を指します(1186節)。したがって、虚偽化された諸真理、すなわち諸偽りです。「わが君たちは、みな王ではないか」と言っているのは、詭弁的推論によって、諸真理が偽りとなりながらも、真理そのもののように見えることを言います。

「アッスリヤ」とは、詭弁的推論です。また「君たちや王たち」は、主要な偽りであり、それが正真正銘の真理であると信じられます。ただし精神が、歴史的な文字上の意味にとらわれている間は、それが見えないし、信じることもできません。ましてや神の〈みことば〉の中に、現れてくる文字以上に、普遍的で聖なるものが内在している事実を否定するなら、そうなります。

しかし内的意味でアッスリヤとは、〈みことば〉における合理性であり、詭弁的推論です。「王たち」とは諸真理そのものであり、「君たち」とは真理の枢要(すうよう)部です。

天界では、アッスリヤがどこかなど無視されています。天使たちは、王や君の概念を念頭から捨て去ります。人の中にその概念を感じ取ると、それを主に向かって移行させ、それを主から発出するもの、天界における主に属するものとして感じとります。すなわち、主の〈神の善〉のみ力に依存した〈神の真理〉だからです。

⑥ 同じく、イザヤ書です。

「アッスリヤは、剣で倒れるが、人の剣ではない。人の剣ではない剣が、かれらを食い尽くす。・・・かれらの岩は、恐れのあまり過ぎ去り、その君たちは、慌てて旗を捨てる」(イザヤ 31:8,9)。

上掲は、エジプトをテーマにします。エジプトは、教会の倒錯された科学知を指します。「アッスリヤ」は、神の諸真理についての科学知による詭弁的推論、それに由来する倒錯であり、虚偽化を指します。アッスリヤが倒れた剣は、真理と戦い、真理を荒廃させる偽りです(2799,4499節)。

同じく、イザヤ書には次のようにあります。

「その君たちが、ゾアンにあっても、パロの力は、あなた方の恥となり、エジプトの陰にある信頼は、不名誉となる。」(イザヤ 30:3,4)。

「ゾアンにある君たち」とは、虚偽化された諸真理を指しますが、前述のように、結局は偽りです。

⑦ 同じくイザヤ書です。

「タカと、ヤマアラシとが、そこを占拠し、フクロウとカラスがそこに住む。その上に空しさの測りなわを張り、荒廃の振り子をさげられる。貴人はそこにはおらず、国と呼び、その君たちはみな失せる」(イザヤ 34:11,12)。

「タカ、ヤマアラシ、フクロウ、カラス」とは、〈みことば〉にある神の諸真理がないがしろにされる際、出現する諸種類の偽りを指します。「測りなわ」そして「振り子」とは、真理の荒涼と荒廃を意味します。「君たち」とは、かれらにとっての主要真理となる諸偽りを指します。

同じく、イザヤ書です。

「わたしは聖所の君たちを汚し、ヤコブを全滅させ、イスラエルに汚名を着せる」(イザヤ 43:28)。

「聖所の君たちを汚す」とは、聖なる諸真理を指します。「ヤコブを全滅させ、イスラエルに汚名を着せる」とは、外部教会および内部教会の真理を根絶することです。「ヤコブ」は外部教会、「イスラエル」は、内部教会を表わします(4286節参照)。

⑧ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの座にすわる王、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。それはかれら自身とかれらの君たちである」(エレミヤ 17:25)。〈みことば〉を歴史的意味でしか理解しない人は、「王たち、司たちが車とウマに乗ってこの町の門から入る」とは、王国の存続を指しているとしか思わないでしょう。ただし以上の記述を越えて、さらに深く、しかも聖なるものが、この中に含まれていることには、気づかないでしょう。

ところが内的意味上、町とは何を指し、王たちとは何のことで、君たちとはだれで、ダビデの座とは何を意味し、車とウマに乗ってくるとは何を指すかを知れば、そこには、さらに深く聖なるものがあることが見えてきます。

「町」すなわち「エルサレム」とは、主の霊的王国を指します(2117,3654節)。「王たち」とは、前述のように〈神の諸真理〉です。「司たち」とは、主要な真理を指します。「ダビデの座」とは、主の天界です(1888節)。「車とウマに乗ってくる」とは、教会の理知的・霊的なものを意味します(2760,2761,3217節)。

⑨ 同じく、エレミヤ書には次のようにあります。

「カルデヤ人の上に、・・・バビロンの住民の上に、その司たちの上に、その賢者たちの上に、また嘘つきの上に、剣あれ。・・・そのウマの上と、その車の上に剣あれ」(エレミヤ 50:35-37)。

「剣」とは、偽りに対抗して戦う真理、および真理に対抗して、これを荒廃させる偽りを指します(2799,4499節)。「カルデヤ人」とは、諸真理を冒涜する人々であり、「バビロンの住民」とは、善を冒涜する人々です(1182,1283,1295,1304,1307,1308,1321,1322,1326,1327節)。「司たち」とは、偽りを指しますが、これはかれらにとって、主要な諸真理になります。「ウマ」は教会の理知的なもの、「車」はその教義事項、「ウマの上と車の上に剣あれ」とは、教義事項の荒廃を指します。

⑩ 同じく、エレミヤによります。

「主は、その怒りによって、シオンの娘を黒雲でおおわれた。・・・主は、ヤコブのすべての住居を滅ぼして哀れまず、その怒りによって、ユダの娘のとりでを壊して地に投げ、その王国と司たちを汚された。・・・門は地に埋もれ、貫の木は砕かれた。王と君たちは、諸民族異邦人の中にいる」(哀歌 2:1,2,9)。

「シオンとユダの娘」とは、天的教会を指します。ここでは壊滅した教会を指します。「王国」とは、教義上の諸真理を指します(2547,4691節)。「王」は真理それ自身を指し、「司たち」はその主要的な真理です。

⑪ 同じく、

「飢餓の嵐によって、皮膚は炉のように黒くなった。シオンの女たち、ユダの町の乙女たちは犯され、司たちは、かれらの手で、吊り刑にされた」(哀歌 5:10-12)。

「かれらの手で吊り刑にされた司」とは、冒涜された諸真理を指します。宙吊りにすることは、冒涜の呪いを表わしました。宙吊りにそのような表象的意味があったため、定めでもありました。

「民がバアルペオルにつきしたがって不倫を働き、かれらの神々を拝んだので、司たちは、太陽が沈むまえ、吊り刑にされた」(民数 25:1-3,4)。

「バアルペオルにつきしたがって不倫を働き、かれらの神々を拝んだ」とは、信心の冒涜でした。

エゼキエル書には次のようにあります。

「王は悲嘆に暮れ、司たちは失望し、地の民の手は震える。わたしはかれらの行いに従って裁く」(エゼキエル 7:27)。

同様に、「王」とは真理一般を、「司たち」とは、主要的真理を指します。

⑫ 同じく、エゼキエル書には次のようにあります。

「司は、かれらの真中にあって、肩に背負われ、暗闇に乗じて出て行く。かれは壁に穴をあけ、そこから出て行く。顔を覆い、かれはこの地を目で見ない」(エゼキエル 12:12)。

上掲の「司」とは、明らかに、実際の司のことではなく、教会の真理を意味します。司が「暗闇に乗じて、肩に背負われ、出て行く」とは、「暗闇」とは偽りを意味し、能力をすべてつかって、諸偽りの間に迷い込むことを言います。「顔を覆う」とは、真理が全く見られないようにすることです。「この地を目で見ない」のは、教会が存在しなくなることです。「地」とは教会を意味することは、662,1066,1067,1262,1413,1607,1733,1850,2117,2118,2928,3355,4447,4535節を参照。ホセア書には次のようにあります。

「イスラエルの子らは、王も、君も、犠牲も、柱も、エポデも、テラピムもないまま、多くの日々を過ごすであろう」(ホセア 3:4)。

⑬ ダビデの書には次のようにあります。

「王の娘は、殿の内部で栄えをきわめ、金糸を織り込んだ衣を着、刺繍のついた衣を着て、王のところに導かれる。・・・あなたの息子たちは、父祖に代わり、あなたはかれらを全地にわたり、司にするであろう」(詩篇 45:13,14,16)。

「王の娘」とは、主の霊的王国を意味します。主の霊的王国と言われているわけは、主の神的真理の力によるためで、「金糸を織り込み、刺繍のついた衣」とは、その神的真理です。「息子たち」とは、主の神性に依存する王国の諸真理で、すなわち「司」であり、主要な諸真理になります。

新しいエルサレム、および新しい地での司やかれの所有については、エゼキエル書 44:3; 45:7,8,17; 46:8,10,12,16,18; 48:21に記されています。「司」とは、主の神性の力による真理一般を指し、「新しいエルサレム」、「新しい神殿」、「新しい地」とは、諸天界と地上における主のみ国です。〈みことば〉の他の箇所で、どのような表象を用いているかが、そこで浮き彫りにされます。

  
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