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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #5321

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5321. 「第二の車にかれを乗せ」とは、善と真理の全教義が、かれに依存するというしるしを指します。それは後述のように、「車」が善と真理の教義を指すものだからです。「だれかを車に乗せる」とは、当該の教義がその人に依存するとのしるしです。

このことは、前もってパロの言った「あなたは、わたしの家を治めなさい。わたしの民はみな、あなたの口に接吻するでしょう。あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」(創世記 41:40)との言葉と関連があります。

善と真理の教義が、かれに依存するとは、次のとおりです。すなわち、「ヨセフ」は、主を表象しますが、それは霊的神性の面から見た場合です(3971,4669節)。これは、主の神人性に根ざす〈神の真理〉から見た場合でもあります(4723,4727節)。そして、〈霊的なものの天的なもの〉は、その〈神の真理〉に依存します。

善と真理のあらゆる教義は、〈神の真理〉から来ます。主こそ教義そのものだからであり、あらゆる教義は、主から発出するとともに、その教義は、主をテーマとするからです。

教義はすべて、愛の善と、信仰の真理をテーマとします。愛の善と信仰の真理は、主によるわけですから、主はその中に内在され、しかもその両方であられます。その結果、善と真理をテーマとする教義は、主おひとりをテーマにしており、しかもその発出源は、主の神人性であることが、明らかになります。

② どのような教義でも、神ご自身からきますが、これもかならず、神人性を通してなされます。これはつまり〈みことば〉です。〈みことば〉とは、最高の意味では、主の神人性に依存する〈神の真理〉です。〈神の真理〉は、神ご自身から、直接発出します。このことは、内奥天界における天使たちでも、理解できません。理由は、〈神の真理〉が無限であるためであり、こうしてあらゆる理解を越えるもの、天使の理解も越えるものだからです。

しかし、主の神人性から発出するものは、理解することができます。なぜなら、神人としての神を焦点に置いているからです。神人性の場合は、その人間性から、ある程度の概念を〈かたち〉作ることができます。主の人間性について形成された概念は、純真無垢の善からの流入があり、しかも仁愛の善のうちに浸っているかぎり、それがどのようなものかが受け入れられます。それは、ヨハネによる福音書の主の〈みことば〉が意味するところです。

「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる方が、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ 5:37)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「父を知る者は、子と、父を啓示しようとして、子が選んだ者の他は、だれもありません」(マタイ 11:27)。

③ 〈みことば〉の多くの個所で、車が登場します。しかし車が善と真理の教義事項、および教義事項にある科学知を意味するのを知っている人は、ほとんどいません。「車」が登場すると、自然的な歴史的物語としてしか考えず、霊的な概念が何一つ入ってこないからです。

「車の前を行くウマ」もそうです。「ウマ」とは、〈みことば〉では理知的なものを指しますから(2760-2762,3217節)、「車」というと、教義事項とその科学知を意味することになります。

④ 「車」とは、教会の教義事項であり、また科学知です。それはわたし自身、他生で、車を何度か目撃し、それが明らかです。また地界 の周辺右方にあるところでは、車とウマがいて、ウマ小屋が整然と並んでいます。そこでは、この世で教養人だった人たちが、散歩したり、談話したりしています。かれらにとって、生きるのは、そのような教養が目的でした。

かれらの目に、そのように見えたのは、比較的上位の諸天界にいる天使たちがきっかけになっています。天使たちが、理知的事柄や、教義事項とか、科学知などについて語ると、霊たちの目には、そのように見えます。

⑤ 車やウマには、そのような意味があります。その事実は、エリヤの話から実にはっきりと浮き彫りにされます。エリヤは、火の車と火のウマに乗って、天界へ向かう有様で見えました。エリヤもエリシャも、「イスラエルの車、その騎手」と呼ばれています。それについては、列王記下にあります。

「見よ、火の車と火のウマが、かれらをさえぎって現れた。エリヤはつむじ風とともに天にのぼった。エリシャはこれを見て叫んだ。わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と」(列王下 2:11,12)。

列王記下には、エリシャについて、次のようにあります。

「エリシャは、死にいたる病気にかかっていたとき、イスラエルの王ヨアシは、下ってきてかれの顔前で涙を流し、わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と言った」(列王下 13:14)。

エリヤも、エリシャも、〈みことば〉の主を表象しているため、そのように呼ばれました(創世記第18章序文、2762節,5247節終わり)。〈みことば〉それ自身は、善と真理の教義が中心になっています。教義はすべて、善と真理に由来するからです。それゆえ、エホバによって目が開かれた少年は、エリシャの周囲にあるものが見えました。

「山は、火のウマと火の車で、いっぱいに満ちていた」(列王下 6:17)。

「車」は、教義事項を示し、「ウマ」は、理知的なものを示します。これは〈みことば〉の他の個所からも、明らかです。

⑥ エゼキエル書には次のようにあります。

「あなた方は、わたしの食卓で、ウマと車、それに勇士と戦士のすべてを飽きるほど食べる。こうしてわたしは、わが栄光を諸民族に示す」(エゼキエル 39:20,21黙示録 19:18)。

以上は、主の到来をテーマにしています。上掲で、「ウマと車」とありますが、それは実際のウマや車のことでないことは、だれにでも明らかです。ウマや車を「主の食卓で、飽きるほど食べる」わけはないからです。ウマとか車が意味するもので、飽かされると言う意味です。それはすなわち、理知的なものであり、善と真理の教義事項です。

⑦ ウマや車は、次の引用個所でも、同じような意味をもっています。ダビデの書には次のようにあります。

「神の戦車は、幾千万もの平和部隊である。主はかれらの中におられ、シナイは聖所にある」(詩篇 68:17)。

同じく、

「エホバは、衣のように光をまとい、カーテンのように、諸天をひろげ、ご自分の高殿を水上で組み合わせ、ご自分の車として雲をたなびかせ、風の翼の上を歩かれる」(詩篇 104:2,3)。

イザヤ書には次のようにあります。

「海の荒野についての預言。・・・主は、わたしにこう言われた。見張りをする番人をおき、番人に報告させなさい、と。こうしてかれは、車と二人の騎手と、ロバの車とラクダの車を見た。かれは耳を傾けたが、それは注意深いものであった。見張りのライオンは叫んだ。主よ、わたしは昼間ずっと立っていました。わたしは毎夜、見張りをしていました。見よ、一人の男の車、二人の騎手がいた。・・・そしてバビロンは、滅びに滅んだと、かれは言った」(イザヤ 21:1,6-9)。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「そのときかれらは、全民族の中にいるあなた方の兄弟みなを、エホバへの供え物として連れてくる。ウマ、車、籠、ラバ、飛車に乗って、わが聖なる山エルサレムへ連れてくる」(イザヤ 66:20)。

同じく、

「見よ、エホバは火の中に来られる。その車は、旋風のようだ」(イザヤ 66:15)。

ハバクク書には次のようにあります。

「エホバを憤らせたのは、もろもろの川でしょうか。あなたがご自身のウマに乗り、あなたの車が救いなのに、あなたは川に向かって怒られ、海に向かって立腹されるのですか」(ハバクク 3:8)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「目をあげて見た。すると見よ、四台の車が、二つの山の間から出てきた。その山は青銅の山であった。第一の車には赤ウマ、第二の車には黒ウマ、第三の車には白ウマ、第四の車には、斑(まだら)のウマが着いていた」(ゼカリヤ 6:1-3)。

⑨ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの王座に座する王たち、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。王たちとその司、ユダの人、エルサレムの住人は、いつまでも、この町に住むであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「エルサレム」とは、主の教会のことですから、「いつまでも住む町」とは、エルサレムのことではありません(402,2117,3654節)。「この町の門から入る王たち」とは、実際の王のことでなく、教会の諸真理を意味します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節)。「司たち」とは、司のことではなく、最優先の真理を意味します(1482,2089,5044節)。

「ダビデの王座にすわる人」とは、主から発出する神的諸真理です(5313節)。「車とウマに乗る騎手」は、その神的諸真理由来の理知的なもの、および教義事項を指します。〈みことば〉の歴史の中には、車がしばしば登場します。〈みことば〉の歴史すべては表象であり、単語は含意的ですから、主のみ国とか、教会に関係ある事柄を指すため、ここでの「車」にもそのような意味があります。

⑩ 〈みことば〉の中では、対立する意味で用いられている場合も多く、そのようなとき、「車」は、悪と偽りの教義事項、さらにそれを確証するような科学知を指します。例えば、イザヤ書には、次のようにあります。

「助けを求めてエジプトに下り、ウマに頼る者は、わざわいである。かれらは車の数の多さに信頼し、おびただしい数の強靭(きょうじん)な騎手たちに信頼する。しかしイスラエルの聖なる方を仰がない」(イザヤ 31:1)。

同じく、

「あなたは、あなたの召使の手を用いて、主を冒涜して言った。わたしは多くの車を率いて山々の頂に登り、レバノンの奥へ行き、背丈の高い糸スギと、良質のモミの木を切り倒そう、と」(イザヤ 37:24)。

上掲は、アッスリヤの王の将軍ラブシャケの傲慢な言葉にたいする預言的応えです。エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、北方から水が上り、あふれる川となり、地とその富、町とその住民を水びたしにする。・・・地のすべての住民は、強者たちのウマのひずめの勝どきと、その車の轟音(ごうおん)と、その車輪のきしみ音で、嘆き悲しむであろう」(エレミヤ 47:2,3)。

⑪ エゼキエル書には次のようにあります。

「おびただしい数のウマで、その土煙があなたを覆う。騎手の勝どき、車輪と車の轟音で、あなたの石垣はゆらぐ。町の入口は壊され、門の中に入るからである。あなたの大通りはすべて、ウマのひずめで蹴散らされる」(エゼキエル 26:10,11)。

ハガイ書には次のようにあります。

「わたしは、国々の王座をくつがえし、諸民族の国々の力をつぶす。また車とそれに乗る者をくつがえし、ウマとその騎手たちは倒れる」(ハガイ 2:22)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、エフライムから車を断ち、エルサレムからウマを無くし、戦いの弓を断ち切る。しかし諸民族への平和を語るであろう」(ゼカリヤ 9:10)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「エジプトは、川のように上ってくる。その水は、河川のように揺れ動く。かれは言った。わたしは上っていき、地を覆い、町とその住民を滅ぼす。ウマは上って来い。車は狂うように走れ、と」(エレミヤ 46:8,9)。

⑫ 上掲での「ウマ」や「車」は、イスラエルの子らを追跡したエジプト人のウマと車です。そのウマと車を使って、パロはスフ海に入りましたが、そこで車輪が動かなくなりました。出エジプト記第14章の第6,7,9,17,23,25,26節、第15章第4、19節には、ウマと車がその記録の大部分を占めています。

これは、偽りの理知的なもの、教義事項、科学知と、教会の諸真理を転覆させ、消滅させるそれ由来の詭弁的推論を意味します。そのような事柄が殲滅(せんめつ)され、死んでいったことが、ここに記録されています。

  
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天界の秘義 #5954

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5954. 「またかれは、それぞれ全員に、晴着を与えた」とは、自然性に由来する真理の多さを意味します。「着物(衣服)」とは、諸真理を意味することについては、これから述べます。「晴着」とは、新しい諸真理を指します。諸真理は、善の導入が開始されると、新しくなります。なぜなら、その際、〈いのち〉を受けるからです。

問題の焦点は、自然的人間が霊的人間と結ばれ、外部人間が内部人間と結ばれることです。つまりこのような結びつきが行われるとき、諸真理は変わって、新しくなります。善の流入によって〈いのち〉を受けるからです(5951節参照)。「衣服を替える」ことは、聖なる真理を身に帯びることを表象します。つまりそれは晴着です(4545節)。

② 〈みことば〉で「衣服」というと、諸真理を意味します。血管が血液を吸いこみ、繊維が霊液を吸収するのと、ほとんど同じように、諸真理は善を吸収します。「衣服」は、真理のシンボル になりますが、霊や天使たちは、衣服をまとって現れます。

各自は、自分が身に帯びている諸真理に呼応します。善の媒体となる信仰の諸真理のうちに宿る人は、白衣の姿で現れます。また善に根ざす信仰の諸真理の中に宿る人は、まばゆいばかりの明るい輝きの中に現れますが、それは真理をつらぬき、善が輝き出ているためです(5284節)。

③ 霊や天使たちが衣服を着て現れることは、天使を見たとある〈みことば〉の記録から明らかです。マタイによる福音書には、次のようにあります。

「(主の墓に座っている)天使の姿は、いなずまのように輝き、その衣服は雪のように白かった」(マタイ 28:3)。

同じく、

「わたしは、玉座のまわりに座っている二十四人の長老を見たが、かれらは、白い衣服を身にまとっていた」(黙示録 4:4)。

同じく、

「白いウマに乗っている方は、・・・血に染まった衣服を着ており、神の〈みことば〉という名で呼ばれている。天界におけるその方の軍勢は、純白の亜麻布を身に帯び、白いウマにまたがって、その方のあとに従った」(黙示録 19:11,13,14)。

「雪のように白い衣服」とか「白い亜麻布」は、聖なる諸真理を示します。「白色」や「明るい白色」は、諸真理を修飾します(3301,3993,4007,5319節)。そのわけは、光に接近しているからで、主による光は、〈神の真理〉だからです。そのため、主がご変容になったとき、その衣服は、光り輝いて見えました。マタイによる福音書にあります。

「イエスがご変容になったとき、そのみ顔は、太陽のように輝き、その衣服は、光のようになった」(マタイ 17:2)。

教会では周知のように、「光」は〈神の真理〉です。これが「衣服」に例えられることは、ダビデの書にあるとおりです。

「エホバは、衣服をまとわれるように、光をまとわれる」(詩篇 104:2)。

④ 「衣服」とは諸真理を指すことは、〈みことば〉の多くの箇所から分かります。マタイによる福音書にあります。

「王は列席者に会うため入ってきたが、そこに礼服をつけていない者がいるのを見て、かれに、友よ、礼服をつけないまま、どうやってここへ入って来られたのかと言った。・・・それでかれは、外の暗がりに放逐された」(マタイ 22:11-13)。

「礼服をつけない」とは何を意味するかは、2132節を参照下さい。イザヤ書には、次のようにあります。

「シオンよ、元気を出して、あなたの力を身に帯びなさい。聖なる都エルサレムよ、あなたの誉れの衣服を着なさい。あなたのところには、無割礼者や汚れ者が入り来ることは、もうないからである」(イザヤ 52:1)。

「誉れの衣服」とは、善に根ざした諸真理を指します。

⑤ エゼキエル書には次のようにあります。

「わたしは、刺繍の入った衣服をあなたに着せ、革製の靴を履かせ、亜麻布をかぶらせ、絹であなたを覆った。・・・あなたの衣服は、亜麻布、絹、刺繍衣である。あなたは麦粉と蜜と油とを食べた」(エゼキエル 16:10,13)。

上掲で問題にしているエルサレムは、古代の霊的教会を指します。最古代の天的教会が消滅したあと、主はこの古代教会を設立されました。「衣服」とは、その古代教会に与えられた諸真理を描き出します。「刺繍」は、科学知を指します。これが純粋な科学知であって、刺繍のように見え、しかも来世では、レースのように見えます。わたしはそれを見る機会にめぐまれました。「亜麻布」や「絹」は、善に根ざす諸真理です。しかし天界の光に照らされると、あふれ透き通るような輝きを放ちます。

⑥ 同じく、次のようにあります。

「あなたの帆は、エジプト産の刺繍のある亜麻布であった。またあなたの覆いは、エリシャの海岸から来る青と赤紫の布であった」(エゼキエル 27:7)。

上掲は、ツロを念頭においています。ツロは、真理と善の諸認識を表わします(1201節)。「エジプト産の刺繍のある亜麻布」とは、純粋な認識であり、「青と赤紫」は、その認識由来の善、すなわち真理の善です。

⑦ ダビデの書には次のようにあります。

「王の娘は、全面の栄光を帯び、その織り成す金色の衣装、刺繍のある衣を身につけ、王のほうに導かれる」(詩篇 45:13,14)。

「王の娘」とは、真理の情愛を示します。「織り成す金色の衣装」とは、善を宿す諸真理です。「刺繍」とは、最下の諸真理を指します。ヨハネの書には、次のようにあります。

「サルデスには、その相応しさのゆえ、衣装を汚すことなく、白衣をまとい、わたしとともに歩く少数の名前が知られている。勝利する者は、白衣を着せられる」(黙示録 3:4,5)。

「衣装を汚さない」とは、偽りによって、諸真理を汚さないことを意味します。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「目を覚まし、裸で歩くことがないよう、また裸の恥を見られないよう、自分の衣服を備える者は、さいわいである」(黙示録 16:15)。

「衣服」とは、同様に、諸真理を指します。固有の意味での「衣服」とは、〈みことば〉に根ざす信仰の諸真理です。その諸真理にしても、あるいは異教徒の場合は、自らの宗教的真理やそれに類する教えにしても、それを手に入れ、生活に適用しなかった者は、自分が善の中にいると思っていても、善の中にはいません。なぜなら本人には、〈みことば〉由来の真理、または自らの宗教的真理が存在しないため、詭弁的推論によって、善霊だけでなく、悪霊からも等しく導かれ、天使たちによって、守られることがないからです。

「目を覚まし、裸で歩くことがないよう、また裸の恥を見られないよう、自分の衣服を備える」とは、それです。

⑨ ゼカリヤ書には次のようにあります。

「ヨシュアは、汚れた衣服を身につけ、天使の面前に立っていた。天使は、自分の前に立っている人々に向かって、かれから汚れた衣服を脱がせなさいと言った。そしてヨシュアに向かって、わたしは晴れ着をあなたに着せて、あなたから、その汚れを消し去ったのを見なさい、と言った」(ゼカリヤ 3:3,4)。

「汚れた衣服」とは、悪に起因する偽りによって汚された諸真理を指します。その衣服が取り除かれ、他の衣服を着せられたことで、「あなたから、その汚れを消し去ったのを見なさい」と言われています。

衣服を替えても、罪科を消し去ることはできないことは、だれにも分かりますから、衣服を替えることはシンボルであると結論づけられます。たとえば、シナイ山に近づいたとき、清められるため、衣服を洗うよう命じられました(出エジプト 19:14)。またかれらは、こうして不純から清められました(レビ 11:25,40; 14:8,9民数 8:6,7; 19:21; 31:19-24)。

⑩ 不純なものからの清めは、信仰の諸真理によります。善とは何か、仁愛とは何か、隣人とはだれのことか、信仰とは何か、主とは、天界とは、永遠の〈いのち〉とは何かなど、信仰の真理として教えられなければ分かりませんし、その存在さえ分かりません。

自分で分かるのは、自己愛や世間愛の善こそ、人間に与えられた唯一の善であって、自己愛・世間愛ともに、本人の〈いのち〉の喜びであることです。ところが人間には、他の善が与えられている事実は、信仰の諸真理からしか分かりません。つまり神への愛の善、隣人にたいする仁愛の善です。しかもその善の中にこそ、天的〈いのち〉があることです。さらに人が、だれよりも自分を愛し、天界よりもこの世を愛さなくなれば、それだけ天界を通って、主から、善の流入があります。以上から、衣服を洗うことは、清めの表象ですが、その清めは、信仰の諸真理によるものであることが明らかになります。

  
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