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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #5321

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5321. 「第二の車にかれを乗せ」とは、善と真理の全教義が、かれに依存するというしるしを指します。それは後述のように、「車」が善と真理の教義を指すものだからです。「だれかを車に乗せる」とは、当該の教義がその人に依存するとのしるしです。

このことは、前もってパロの言った「あなたは、わたしの家を治めなさい。わたしの民はみな、あなたの口に接吻するでしょう。あなたに優るのは、王位のあるわたしだけだ」(創世記 41:40)との言葉と関連があります。

善と真理の教義が、かれに依存するとは、次のとおりです。すなわち、「ヨセフ」は、主を表象しますが、それは霊的神性の面から見た場合です(3971,4669節)。これは、主の神人性に根ざす〈神の真理〉から見た場合でもあります(4723,4727節)。そして、〈霊的なものの天的なもの〉は、その〈神の真理〉に依存します。

善と真理のあらゆる教義は、〈神の真理〉から来ます。主こそ教義そのものだからであり、あらゆる教義は、主から発出するとともに、その教義は、主をテーマとするからです。

教義はすべて、愛の善と、信仰の真理をテーマとします。愛の善と信仰の真理は、主によるわけですから、主はその中に内在され、しかもその両方であられます。その結果、善と真理をテーマとする教義は、主おひとりをテーマにしており、しかもその発出源は、主の神人性であることが、明らかになります。

② どのような教義でも、神ご自身からきますが、これもかならず、神人性を通してなされます。これはつまり〈みことば〉です。〈みことば〉とは、最高の意味では、主の神人性に依存する〈神の真理〉です。〈神の真理〉は、神ご自身から、直接発出します。このことは、内奥天界における天使たちでも、理解できません。理由は、〈神の真理〉が無限であるためであり、こうしてあらゆる理解を越えるもの、天使の理解も越えるものだからです。

しかし、主の神人性から発出するものは、理解することができます。なぜなら、神人としての神を焦点に置いているからです。神人性の場合は、その人間性から、ある程度の概念を〈かたち〉作ることができます。主の人間性について形成された概念は、純真無垢の善からの流入があり、しかも仁愛の善のうちに浸っているかぎり、それがどのようなものかが受け入れられます。それは、ヨハネによる福音書の主の〈みことば〉が意味するところです。

「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる方が、神をあらわした」(ヨハネ 1:18)。

同じく、

「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ 5:37)。

マタイによる福音書には次のようにあります。

「父を知る者は、子と、父を啓示しようとして、子が選んだ者の他は、だれもありません」(マタイ 11:27)。

③ 〈みことば〉の多くの個所で、車が登場します。しかし車が善と真理の教義事項、および教義事項にある科学知を意味するのを知っている人は、ほとんどいません。「車」が登場すると、自然的な歴史的物語としてしか考えず、霊的な概念が何一つ入ってこないからです。

「車の前を行くウマ」もそうです。「ウマ」とは、〈みことば〉では理知的なものを指しますから(2760-2762,3217節)、「車」というと、教義事項とその科学知を意味することになります。

④ 「車」とは、教会の教義事項であり、また科学知です。それはわたし自身、他生で、車を何度か目撃し、それが明らかです。また地界 の周辺右方にあるところでは、車とウマがいて、ウマ小屋が整然と並んでいます。そこでは、この世で教養人だった人たちが、散歩したり、談話したりしています。かれらにとって、生きるのは、そのような教養が目的でした。

かれらの目に、そのように見えたのは、比較的上位の諸天界にいる天使たちがきっかけになっています。天使たちが、理知的事柄や、教義事項とか、科学知などについて語ると、霊たちの目には、そのように見えます。

⑤ 車やウマには、そのような意味があります。その事実は、エリヤの話から実にはっきりと浮き彫りにされます。エリヤは、火の車と火のウマに乗って、天界へ向かう有様で見えました。エリヤもエリシャも、「イスラエルの車、その騎手」と呼ばれています。それについては、列王記下にあります。

「見よ、火の車と火のウマが、かれらをさえぎって現れた。エリヤはつむじ風とともに天にのぼった。エリシャはこれを見て叫んだ。わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と」(列王下 2:11,12)。

列王記下には、エリシャについて、次のようにあります。

「エリシャは、死にいたる病気にかかっていたとき、イスラエルの王ヨアシは、下ってきてかれの顔前で涙を流し、わが父よ、わが父よ、イスラエルの車よ、その騎手よ、と言った」(列王下 13:14)。

エリヤも、エリシャも、〈みことば〉の主を表象しているため、そのように呼ばれました(創世記第18章序文、2762節,5247節終わり)。〈みことば〉それ自身は、善と真理の教義が中心になっています。教義はすべて、善と真理に由来するからです。それゆえ、エホバによって目が開かれた少年は、エリシャの周囲にあるものが見えました。

「山は、火のウマと火の車で、いっぱいに満ちていた」(列王下 6:17)。

「車」は、教義事項を示し、「ウマ」は、理知的なものを示します。これは〈みことば〉の他の個所からも、明らかです。

⑥ エゼキエル書には次のようにあります。

「あなた方は、わたしの食卓で、ウマと車、それに勇士と戦士のすべてを飽きるほど食べる。こうしてわたしは、わが栄光を諸民族に示す」(エゼキエル 39:20,21黙示録 19:18)。

以上は、主の到来をテーマにしています。上掲で、「ウマと車」とありますが、それは実際のウマや車のことでないことは、だれにでも明らかです。ウマや車を「主の食卓で、飽きるほど食べる」わけはないからです。ウマとか車が意味するもので、飽かされると言う意味です。それはすなわち、理知的なものであり、善と真理の教義事項です。

⑦ ウマや車は、次の引用個所でも、同じような意味をもっています。ダビデの書には次のようにあります。

「神の戦車は、幾千万もの平和部隊である。主はかれらの中におられ、シナイは聖所にある」(詩篇 68:17)。

同じく、

「エホバは、衣のように光をまとい、カーテンのように、諸天をひろげ、ご自分の高殿を水上で組み合わせ、ご自分の車として雲をたなびかせ、風の翼の上を歩かれる」(詩篇 104:2,3)。

イザヤ書には次のようにあります。

「海の荒野についての預言。・・・主は、わたしにこう言われた。見張りをする番人をおき、番人に報告させなさい、と。こうしてかれは、車と二人の騎手と、ロバの車とラクダの車を見た。かれは耳を傾けたが、それは注意深いものであった。見張りのライオンは叫んだ。主よ、わたしは昼間ずっと立っていました。わたしは毎夜、見張りをしていました。見よ、一人の男の車、二人の騎手がいた。・・・そしてバビロンは、滅びに滅んだと、かれは言った」(イザヤ 21:1,6-9)。

⑧ 同じく、次のようにあります。

「そのときかれらは、全民族の中にいるあなた方の兄弟みなを、エホバへの供え物として連れてくる。ウマ、車、籠、ラバ、飛車に乗って、わが聖なる山エルサレムへ連れてくる」(イザヤ 66:20)。

同じく、

「見よ、エホバは火の中に来られる。その車は、旋風のようだ」(イザヤ 66:15)。

ハバクク書には次のようにあります。

「エホバを憤らせたのは、もろもろの川でしょうか。あなたがご自身のウマに乗り、あなたの車が救いなのに、あなたは川に向かって怒られ、海に向かって立腹されるのですか」(ハバクク 3:8)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「目をあげて見た。すると見よ、四台の車が、二つの山の間から出てきた。その山は青銅の山であった。第一の車には赤ウマ、第二の車には黒ウマ、第三の車には白ウマ、第四の車には、斑(まだら)のウマが着いていた」(ゼカリヤ 6:1-3)。

⑨ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの王座に座する王たち、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。王たちとその司、ユダの人、エルサレムの住人は、いつまでも、この町に住むであろう」(エレミヤ 17:25; 22:4)。

「エルサレム」とは、主の教会のことですから、「いつまでも住む町」とは、エルサレムのことではありません(402,2117,3654節)。「この町の門から入る王たち」とは、実際の王のことでなく、教会の諸真理を意味します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節)。「司たち」とは、司のことではなく、最優先の真理を意味します(1482,2089,5044節)。

「ダビデの王座にすわる人」とは、主から発出する神的諸真理です(5313節)。「車とウマに乗る騎手」は、その神的諸真理由来の理知的なもの、および教義事項を指します。〈みことば〉の歴史の中には、車がしばしば登場します。〈みことば〉の歴史すべては表象であり、単語は含意的ですから、主のみ国とか、教会に関係ある事柄を指すため、ここでの「車」にもそのような意味があります。

⑩ 〈みことば〉の中では、対立する意味で用いられている場合も多く、そのようなとき、「車」は、悪と偽りの教義事項、さらにそれを確証するような科学知を指します。例えば、イザヤ書には、次のようにあります。

「助けを求めてエジプトに下り、ウマに頼る者は、わざわいである。かれらは車の数の多さに信頼し、おびただしい数の強靭(きょうじん)な騎手たちに信頼する。しかしイスラエルの聖なる方を仰がない」(イザヤ 31:1)。

同じく、

「あなたは、あなたの召使の手を用いて、主を冒涜して言った。わたしは多くの車を率いて山々の頂に登り、レバノンの奥へ行き、背丈の高い糸スギと、良質のモミの木を切り倒そう、と」(イザヤ 37:24)。

上掲は、アッスリヤの王の将軍ラブシャケの傲慢な言葉にたいする預言的応えです。エレミヤ書には、次のようにあります。

「見よ、北方から水が上り、あふれる川となり、地とその富、町とその住民を水びたしにする。・・・地のすべての住民は、強者たちのウマのひずめの勝どきと、その車の轟音(ごうおん)と、その車輪のきしみ音で、嘆き悲しむであろう」(エレミヤ 47:2,3)。

⑪ エゼキエル書には次のようにあります。

「おびただしい数のウマで、その土煙があなたを覆う。騎手の勝どき、車輪と車の轟音で、あなたの石垣はゆらぐ。町の入口は壊され、門の中に入るからである。あなたの大通りはすべて、ウマのひずめで蹴散らされる」(エゼキエル 26:10,11)。

ハガイ書には次のようにあります。

「わたしは、国々の王座をくつがえし、諸民族の国々の力をつぶす。また車とそれに乗る者をくつがえし、ウマとその騎手たちは倒れる」(ハガイ 2:22)。

ゼカリヤ書には次のようにあります。

「わたしは、エフライムから車を断ち、エルサレムからウマを無くし、戦いの弓を断ち切る。しかし諸民族への平和を語るであろう」(ゼカリヤ 9:10)。

エレミヤ書には次のようにあります。

「エジプトは、川のように上ってくる。その水は、河川のように揺れ動く。かれは言った。わたしは上っていき、地を覆い、町とその住民を滅ぼす。ウマは上って来い。車は狂うように走れ、と」(エレミヤ 46:8,9)。

⑫ 上掲での「ウマ」や「車」は、イスラエルの子らを追跡したエジプト人のウマと車です。そのウマと車を使って、パロはスフ海に入りましたが、そこで車輪が動かなくなりました。出エジプト記第14章の第6,7,9,17,23,25,26節、第15章第4、19節には、ウマと車がその記録の大部分を占めています。

これは、偽りの理知的なもの、教義事項、科学知と、教会の諸真理を転覆させ、消滅させるそれ由来の詭弁的推論を意味します。そのような事柄が殲滅(せんめつ)され、死んでいったことが、ここに記録されています。

  
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天界の秘義 #6148

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6148. 「かれは、祭司の土地だけは、買い取らなかった」とは、自然性に根ざす内部のものが、善を受け入れる能力を手に入れたこと、しかもその能力が自分自身の力によるものであることを意味します。その根拠は次の通りです。

「かれ」とあるのは「ヨセフ」ですが、「ヨセフ」は、前述のように、内部のものを指します。「土地(土)」とは、6135-6137節で触れたように、真理の受け皿で、ここでは善を受け止める能力を指します。能力とは、受け止める可能性のことで、受け皿が受け皿になるため必要な可能性です。その能力は、善に由来します。換言すれば、善を介して、主に由来します。

主から、愛の善が流入として注がれなければ、真理にしても、善にしても、人は受け止める能力がありません。主から愛の善が流入として注がれ、その結果、人の内部で受け止めるよう、万事が整えられます。「エジプトに土地(土壌)があった」のは、自然性に根ざす〈善を受け止める能力〉を示します。「エジプト」とは、科学知の面からみた自然性を意味するからです(6142節)。

「祭司(職)」は、これから述べるように、善を意味します。「買い取らない」とは、そのような能力を、自分のものとして同化しないことという意味です。かつては、その受け皿もろとも、諸真理と真理の諸善を、自分のものとして同化しましたが、それは荒涼と養いがあってこそ起こったことです。なぜなら、当該の能力は、自分自身、つまり内部のものの力に依存したからです。

したがって、「祭司たちの土地だけは、買い取らなかった」とは、内部のものが自然性に根ざして、善を受け止める能力をみずから獲得したという意味になります。その能力は、自らのものだからです。

② 事情を説明すると、次の通りです。真理と善を受け止める能力が、人にあるとすれば、それは直接的に主からくるもので、その能力を獲得するため、人の力を借りることは、決してありません。ところで、善と真理を受け止める能力は、いつも人に備わっています。理性と意志は、その能力に根ざしています。

人が悪のほうに身を転じると、善や真理を受け止められません。その際、能力はあっても、思考や感覚に向かう入口が閉ざされています。そのようなわけで、人が悪に身を転じ、〈いのち〉と信仰の力を借りて、その悪に身を固めれば固めるほど、真理を見る能力、善を感じとる能力は、それだけ失われていきます。

真理と善を受け止める能力にたいして、人はまったく無力であることは、教会の教義からも知られています。信仰上の真理にしても、仁愛上の善にしても、人の力によるものは何もなく、主のみ力によるという教えです。人は、自分にあるそのような能力を根絶させることが可能なのです。

自然性に根ざす内部のものが、善を受け止める能力を自力で獲得したのは、その能力が自らに依存するためであるとは、どのような意味か、ここで明らかになります。「自然性に根ざす」とあるのは、主からの善の流入が、内部を通過して、主から、自然性にたいして注がれるからです。そこで受け止める能力を獲得したとき、流入が注がれます。受け止めが成立するのは、そのときです(5828節)。

③ 「祭司」は諸善を意味しますが、忘れてならないことは、主から発出するものには、善と真理という二つがあることです。「祭司」は〈神の善〉の表象、「王」は〈神の真理〉の表象でした。そのため「祭司たち」とは諸善を意味し、「王たち」は諸真理を意味します。主について述べるさいの祭司職や王職については、1728,2015,3670節を参照してください。

古代の表象的教会では、祭司職と王職の二つは、ひとりの人格の中で結ばれていました。主から発出する善と真理は、一体化していたからです。また天界における天使たちのもとでも、結ばれていました。

④ 古代教会で、以上の二つが結ばれたひとりの人格は、メルキゼデク、すなわち「正義の王」という名前の人でした。メルキゼデクは、アブラハムのもとに来ましたが、かれについては次のようにあります。

「サレムの王メルキゼデクは、パンとブドウ酒とを持ってきた。かれはいと高き神の祭司である。かれはアブラハムを祝福した」(創世記 14:18,19)。

メルキゼデクは、祭司と王の両面で、主を表象していました。かれは王であったと同時に祭司でしたし、アブラハムを祝福し、パンとブドウ酒を献じることが許されていました。パンとぶどう酒は、〈愛の善〉と〈信仰の真理〉両方のシンボルだったわけです。両方の面で主を表象していたことは、ダビデの書からも明らかです。

「エホバは、誓いを立てられた。エホバには、後悔はない。あなたは、メルキゼデクの位にしたがって、永遠にいたる祭司である」(詩篇 110:4)。

上掲は、主について言われています。「メルキゼデクの位にしたがって」とは、王と祭司であることです。つまり最高の意味で、そのお方から、〈神の善〉と〈神の真理〉が一つとなって発出することを意味します。

⑤ ヤコブの子孫のもとに、表象的教会が設立され、こうしてまた、一つのものとして主から発出する〈神の善〉と〈神の真理〉は、ひとりの人格の下に結ばれ、表象的に表わされました。

しかし当初、該当の民の行った戦いや偶像崇拝がもとで、その二つは分裂しました。民を支配したのは、指揮官 でしたが、後に、士師 になりました。聖なる儀式をつかさどっていた人は、祭司と呼ばれ、アロンの子孫、つまりレビ族出身者でした。しかしやがて、エリやサムエルの場合のように、二つのものがひとりの人格に統合されました。

しかしこの民のもとでは、偶像崇拝が支配的となったため、表象的教会 の成立は不可能となり、たんなる教会における表象物 になりました。その結果、二つは分裂を余儀なくされ、〈神の真理〉の面で主を表象するのが王であり、〈神の善〉の面で主を表象するのが祭司になりました。

これは民のわがままから出たことで、主の思し召しによって起こったことではありません。エホバがサムエルに言われた〈みことば〉から明らかです。

「民の声に従って、あなたに向かって言った事をすべて行いなさい。かれらはあなたを退けるのでなく、わたしがかれらの王にならないよう、わたしを退けるのである。・・・かれらに、王政の権利を認めてやりなさい」(サムエル上 8:7-終わり;12:19,20)。

⑥ 以上の二つは、分離されてはなりません。なぜなら〈神の善〉から切り離された〈神の真理〉は、人をみな断罪することになりますが、〈神の善〉に結ばれた〈神の真理〉は、人を救うからです。人が地獄の断罪を受けるとすれば、それは、〈神の真理〉によります。しかし〈神の善〉によって、地獄を逃れ、天界に挙げられます。

救いは、慈悲によるものです。つまりは、〈神の善〉によって救われます。人がその慈悲を拒否し、みずから〈神の善〉を排除し、〈神の真理〉の裁きに身をゆだねるとき、それが断罪につながります。「王」が〈神の真理〉を表象することについては、1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節を参照ください。

⑦ 「祭司」は、〈神の善〉の面から見た主を表象します。祭司が善を意味することは、アロンおよびレビ族を祭司職に認定した内的意味上の経緯から、すべて明らかです。大祭司だけが至聖所に入ることができ、そこで儀式を執行しました。またエホバの聖なるものは、祭司のためでした(レビ 23:20; 27:21)。

「かれらは、分け前や嗣業をもたない。エホバこそ、かれらの分け前であり、嗣業である」(民数 18:20申命記 10:9; 18:1)。

「レビ人は、長子の代わりとして、エホバのものである。エホバがアロンに与えたものである」(民数 3:9,12,13,40-終わり,8:16-19)。

「大祭司は、レビ人とともに、幕屋を張り、出発するときに、宿営の真中にいなくてはならない」(民数 1:50-54; 2:17; 3:23-38; 4:1-終わり)。

「アロンの子孫の中で、燔祭や犠牲をささげるために近づく場合、だれしも傷をもった者であってはならない」(レビ 21:17-20)。

それ以外に、レビ記 21:9-13を含め、他にも多くの箇所があります。

⑧ 以上のすべては、最高の意味で、主の〈神の善〉を表象します。またそれに関連して、愛と仁愛の善を表わします。聖性の衣服と呼ばれたアロンの衣服は、〈神の善〉に依存する〈神の真理〉を表わします。それについては、神なる主の慈しみに頼って、出エジプト記で、説明することにします。

⑨ 「王」は真理を意味し、「祭司」は善を意味します。〈みことば〉では、多くの箇所で、王と祭司を登場させます。ヨハネの書には次のようにあります。

「イエス・キリストは、神であるご自分の父のために、われわれを王とし、祭司として下さった」(黙示録 1:6; 5:10)。

「王」と言われるのは、信仰上の真理に根ざし、「祭司」と言われるのは、仁愛の善に根ざしています。前述の通り、主のうちにある人々は、天界の天使のように、真理と善が結ばれています。「王とされ、祭司とされる」には、そのような意味があります。

⑩ エレミヤ書には次のようにあります。

「その日、次のことが起こる。・・・王と司たちとは、その心を失い、祭司たちは仰天し、預言者は驚く」(エレミヤ 4:9)。

同じく、

「イスラエルの家は、恥じをかく。かれらの王たち、司たち、祭司たち、預言者たちもみな、そうである」(エレミヤ 2:26)。

同じく、

「ユダの王たち、その司たち、祭司たち、預言者たち、エルサレムの住民」(エレミヤ 8:1)。

上掲では、「王たち」とは、諸真理を、「司たち」とは、最重要の真理を(1482,2089,5044節)、「祭司たち」とは、諸善を、「預言者たち」とは、教える人たちを意味します(2534節)。

⑪ それ以外にも、次のことは知っておく必要があります。「ヨセフは、祭司たちの土地を買い取らなかった」とは、真理と善を受け止める能力は、すべて主に依存するという事実の表象でした。モーセの書には、レビ人の畑について、同様の律法があるところから、明らかです。

「レビ人たちの町々の周囲にある畑は、売ってはならない。それはかれらの永久の所有だからである」(レビ 25:34)。

愛と仁愛の善を示す〈教会の善〉は、主おひとりの所有であるため、だれも自分のものとして権利を主張してはならないわけです。

  
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