From Swedenborg's Works

 

白い馬 #1

Study this Passage

/ 17  
  

1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

/ 17  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

From Swedenborg's Works

 

天界の秘義 #6674

Study this Passage

  
/ 10837  
  

6674. 「一人はシプラ、もう一人はプアという名前の」とは、科学知が所在する自然性の性格と状態を意味します。その根拠は次の通りです。「名前」は、性格を示すとともに(144,145,1896,2009節)、状態も示します(1946,2643,3422,4298節)。

〈みことば〉に登場する名前は、すべて物事(事柄) を意味し、言及している事柄の要約を含んでおり、結局は、性格と状態を指すものです。したがって、ここでの「シプラ」と「プア」の名前は、先ほどの6673節で明らかなように、言及する事柄から見ても、〈科学知的真理が所在する自然性〉の性格と状態を指すことになります。

名前が、言及する事柄の性格と状態を示すことを知らない人は、名前が登場すると、そこには、名前に当てはまる事物や人物しか、念頭に浮かびません。したがって、主がそのみ名によって示されている際も、主のみ名として思い浮かぶだけです。しかし実際には、信心の性格がそこにあります。すなわち、信じ仕えるための信仰と仁愛のすべてです。

② マタイによる福音書にあります。

「二人または三人が、わたしの名において集まっているところには、わたしはその真中にいる」(マタイ 18:20)。

上掲では、「名前」が問題なのではなく、信仰と仁愛に根ざした信心を問題にしています。ヨハネによる福音書には、次のようにあります。

「そのお方のみ名を信じて、受け入れた者はすべて、神の子となる権限を与えられた」(ヨハネ 1:12)。

ここでもまた、「み名」とは、主にお仕えする信仰と仁愛を指しています。同じく、

「これが記録されたのは、あなた方が、イエスが神のおん子キリストであることを信じ、さらに信じて、そのお方のみ名にあって〈いのち〉を得るためである」(ヨハネ 20:31)。

上掲も同様です。

③ 同じく、次のようにあります。

「何でも、わたしの名において願うものを、わたしはこれをかなえよう」(ヨハネ 14:13,14)。

他の箇所には、次のようにあります。

「わたしの名において、父に願うものは、何であっても、わたしはあなた方にそれを与えよう」(ヨハネ 15:16,17; 16:23,24)。

上掲は、「主のみ名において、父に願い求める」のではなく、主ご自身に願い求めることを言います。諸教会でも周知のように、主の神人性をとおしてでなければ、父にまします〈神の善〉にいたる道が開かれません(3704節)。したがって、信仰の諸真理にしたがって、主ご自身に願い求めることです。もし信仰の諸真理にしたがって願い求めるなら、与えられます。主ご自身、ヨハネの福音書で、あらかじめ言っておられます。

「もしあなた方が、わたしの名において願い求めるなら、わたしはそれをかなえよう」と。

主 とは、エホバのみ名でもあるからこそ、そうなります。モーセは次のように言っています。

「わたしは、道中あなたを守るために、あなたの前に天使を遣わそう。わたしの名は、その方の真中にあるので、その方の前につつしみ、その方の声に耳を傾け、その方を憤らせてはならない」(出エジプト 23:20,21)。

④ ヨハネによる福音書にあります。

「父よ、あなたのみ名を栄化してください。すると天界から声があった。わたしは、すでに栄化した。そして再び栄化するであろう」(ヨハネ 12:28)。

同じく、次のようにあります。

「わたしは、あなたがこの世から、わたしにくださった人々に、あなたのみ名を表わしました。かれらに、あなたのみ名を知らせ、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛された愛がかれらの中にあり、わたしもかれらの中にいるためです」(ヨハネ 17:6,26)。

主は、神人性の面から見て、エホバのみ名であるとともに、エホバのご性格 のすべてでもあります。しかも神的礼拝のすべては神人性に依存し、神人性こそ礼拝されるべき方であることが、以上から明らかです。

このようにして、神ご自身が礼拝されることになります。こうしてこそ、神についての考えが生まれます。神について考えが生まれなければ、神との結びつきはありません。

⑤ 「主のみ名」こそ、主が礼拝される際の信仰と愛のすべてを含んでいます。それは次の引用箇所からも分かります。マタイによる福音書にあります。

「わたしの名のため、あなた方は、だれからも憎まれる」(マタイ 10:22)。

同じく、

「わたしの名において、このようなひとりの幼子を受け入れる者は、わたしを受け入れる」(マタイ 18:5)。

同じく、

「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子供、畑を捨てる者は、その百倍を受けるであろう」(マタイ 19:29)。

同じく、

「かれらは叫んだ。ダビデの子にホサナ、主のみ名において来られた方には、祝福がありますように」(マタイ 21:9)。

ルカによる福音書には、次のようにあります。

「まことに、わたしはあなた方に言う。主のみ名によって来られる方に祝福あれと、あなた方が言う日まで、あなた方はわたしに会えないであろう」(ルカ 13:35)。

マルコによる福音書にあります。

「まことにわたしは、あなた方に言っておく。あなた方がキリストに従う者だからと、わたしの名において、あなた方に水の一杯でも与える者は、その報いからはずれることはない」(マルコ 9:41)。

ルカによる福音書です。

「七十人の者は、よろこんで帰ってきて言った。主よ、あなたのみ名によって、悪霊でさえわたしたちに服従します、と。イエスは、かれらに向かって言われた。霊たちがあなた方に服従するのを喜ぶのでなく、むしろあなた方の名前が天界に記されていることを喜びなさい、と」(ルカ 10:17,20)。

「天界に記されている名前」とは、実際の名前でなく、かれらの信仰と仁愛の性格を指しています。

⑥ 同じように、黙示録には、「〈いのち〉の書に記された名前」とあります。

「サルディスには、自分の衣を汚さなかった少数の名前がある。勝利を得た者は、白い衣を着せられる。わたしは、〈いのち〉の書から、その名前を消さない。父のみ前と、父に仕える天使たちの前で、わたしは、その者の名前を表明しよう」(黙示録 3:4,5)。

同じく、ヨハネによる福音書にあります。

「門から入ってくるのは、ヒツジ飼いである。ヒツジ飼いは、自分のヒツジをその名で呼ぶ」(ヨハネ 10:2,3)。

出エジプト記には、次のようにあります。

「エホバは、モーセに向かって、わたしは、あなたの名前を知ることで、あなたを知った、と言われた」(出エジプト 33:12,17)。

ヨハネによる福音書にあります。

「多くの者は、その行われたしるしを見て、そのお方のみ名を信じた」(ヨハネ 2:23)。

⑦ 同じく、

「そのお方を信じる者は、裁かれない。信じない者は、すでに裁かれている。神のおんひとり子のみ名を信じないからである」(ヨハネ 3:18)。

イザヤ書には次のようにあります。

「かれらは、西の方から、エホバのみ名を恐れた」(イザヤ 59:19)。

ミカ書には次のようにあります。

「すべての国民は、みずからの神の名において歩む。われわれは、われわれの神エホバのみ名において歩もう」(ミカ 4:5)。

モーセの書には次のようにあります。

「かれらは、その選ばれる場所、そのみ名の置かれる場所で、エホバなる神に仕える」(申命記 12:5,11,14)。

同じように、イザヤ書 18:7エレミヤ 7:12にあります。それ以外にも多くの箇所を参照してください。例えば、イザヤ 26:8,13; 41:25; 43:7; 49:1; 50:10; 52:5; 62:2エレミヤ 23:27; 26:16エゼキエル 20:14,44; 36:21-23ミカ 5:4,マラキ 1:11,申命記 10:8黙示録 2:17; 3:12; 13:8; 14:11; 15:2; 17:8; 19:12,13,16; 22:3,4

⑧ エホバのみ名は、礼拝されるすべてです。つまり最高の意味では、主から発出するすべてを指します。これは祝福からも明らかです。

「エホバがあなたを祝福され、あなたを守られまうように。エホバは、そのみ顔をあなたの上に照らし、あなたを哀れまれますように。エホバはそのみ顔をあなたの上に向け、あなたに平和を賜りますように。こうしてわたしの名は、イスラエルの子らの上に置かれるであろう」(民数 6:23-27)。

以上から、十戒にある次の戒めが何を意味するか、ここで明らかになります。

「あなたの神のみ名を、みだりに唱えてはならない。エホバのみ名を、みだりに唱えた者にたいし、エホバは、それを無辜(むこ)なもの とはなさらないからである」(出エジプト 20:7)。

また、主の祈りの中にもあります。

「あなたのみ名が、聖とされますように」(マタイ 6:9)。

  
/ 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.

From Swedenborg's Works

 

天界の秘義 #2009

Study this Passage

  
/ 10837  
  

2009. 「あなたの名は、もはやアブラムとは言われず」とは、人間性を脱却することを指します。「あなたの名は、アブラハムと呼ばれる」とは、神性を身に帯びることを意味します。以上は、「名前」とか「アブラム」、また「アブラハム」の意味から分かります。

原典.144,145,1754節で明らかなように、〈みことば〉で「あなたの名前は・・・と呼ばれる」とあるとき、その本人の本体 を意味します。「名前」は本体を意味し、それ自身の中にあるものの全体像を捕らえます。

天界では特定の人の名前には注目しないで、人の名前が口にされると、その性格を表わす概念、または本人が身に帯び、本人の中にあるすべてのものが念頭にのぼります。したがって、〈みことば〉での「名前」は本体的性格を意味するものになります。以上が理解できるよう、〈みことば〉から多くの確認事項をとりあげてみます。

モーセが祝福するさい、次のように言いました。

「願わくはエホバがあなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくはエホバがみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれるように。願わくはエホバがみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜わるように、と。こうしてかれらがイスラエルの息子たちのために、わたしの名を唱えなさい」(民数記 6:24-27)。

以上で、名前とは何か、「イスラエルの息子たちのために、エホバの名を唱える」とはどういう意味か分かります。すなわちエホバが祝福し、守り、照らし、哀れみ、平和を与えることです。エホバ、すなわち主とは、以上のような意味があります。

② 十戒には、次のようにあります。

「あなたは、あなたの神エホバの名を、みだりに唱えてはならない。エホバは、み名をみだりに唱えるものを、罰しないではおかない」(出エジプト 20:7申命記 5:11)。

上掲で、主のみ名をみだりに唱えるとは、名前の問題でなく、主によってなされる個々全体を意味します。それは主への信心にかんする個々全体でもあり、軽視されるべきものではないし、まして冒涜したり、不潔物で汚したりしてはなりません。主の祈りにあります。

「み名があがめられますように。み国がきますように。み心が天界で行われているように、地上でも行われますように」(ルカ 11:2)。

「名前」とは、名前を意味するわけでなく、愛と信仰にかんする万事を意味します。愛と信仰こそ、神すなわち主にかんすることであり、主によって行われることです。愛と信仰こそ聖なるものですから、聖なるものとされるとき、主のみ国が到来し、主のみ心が諸天界で行われるように、地上でも行われます。

③ 「名前」にはこのような意味があります。それは旧新約聖書の〈みことば〉で、名前を取り上げている箇所すべてから明らかです。イザヤ書には、次のようにあります。

「その日、あなたがたは言うだろう。エホバをほめたたえよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ、と」(イザヤ 12:4)。

「エホバの名を呼ぶ」、また「あがむべきことを語りつげよ」と言っても、名前に信心をもつとか、そのみ名でエホバが応えられるのを信じるということではありません。むしろどのような方かを知ることにより、またそのお方がなさった個々全体を通して、エホバのみ名を呼ぶことを信じるわけです。同じく、

「したがって、ウリムでエホバをあがめ、海の島々でイスラエルの神、エホバの名をあがめよ」(イザヤ 24:15)。

上掲で、「ウリムでエホバをあがめる」とは、愛に属する聖なるものに根ざして、あがめることです。また「海の島々でイスラエルの神、エホバの名をあがめる」とは、信仰の聖なるものに根ざして、あがめることです。

④ また同じく、

「われわれの神エホバよ、・・・われわれはただ、あなたの名のみをあがめるでしょう」(イザヤ 26:13)。

同じく、

「わたしは北から来させるが、かれは太陽の昇るところから来る。かれはわが名を呼ぶ」(イザヤ 41:25)。

「エホバの名をあがめ、呼ぶ」とは、愛の善と信仰の真理に根ざして仕えることです。「北から来る者」とは、教会外にいて、エホバのみ名については無知の中にありながら、エホバのみ名を呼ぶ人々を指します。かれらは、相互愛の中に生き、宇宙の創造者のみ心を崇めています。エホバのみ名を呼ぶとは、名前を口ずさむことでなく、神礼拝とその本体的性格にあります。諸民族に主が臨在しておられることについては、932,1032,1059節を参照してください。

⑤ 同じくイザヤ書です。

「諸民族はあなたの正義を見、すべての王はあなたの栄光を見る。あなたは、エホバの口が知らせる新しい名で呼ばれる」(イザヤ 62:2)。

「あなたは新しい名で呼ばれる」とは、新しく創造された者、すなわち再生した者という別人を示します。ミカ書には、次のようにあります。

「すべての国民は、みずからの神の名において歩む。われわれは、われわれの神エホバのみ名において永遠に歩む」(ミカ 4:5)。

「みずからの神の名において歩む」とは、あきらかに冒涜的信心を指します。「エホバの名において歩む」とは、真実の信心を指します。マラキ書には、次のようにあります。

「日の出る所から没する所まで、諸民族の中でわが名はあがめられる。またあらゆるところで、香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が諸民族の中であがめられているからである」(マラキ 1:11)。

上掲で、「名」といっても名を意味せず、エホバすなわち主にふさわしい信心を意味し、それに基づいた礼拝を求められています。

⑥ モーセの書には、次のようにあります。

「そこにご自分の名を置き、ご自分の名を住まわせるため、あなた方の神エホバが全部族から選ばれた場所がある。・・・わたしがあなた方に命じたことすべてを、そこに持っていきなさい」(申命記 12:5,11,14; 16:2,6,11)。

上掲で、「ご自分の名を置き」、「ご自分の名を住まわせるため」とあるのは、それは名ではなく、信心を問題にしています。つまりは信心の出発となるエホバすなわち主の本体です。主の本性とは、愛の善と信仰の真理ですから、愛の善と信仰の真理の中にいる人々に、「エホバの名を住まわせられ」ます。エレミヤ書には、次のようにあります。

「わたしが最初、わたしの名を住まわせた場所シロへ行きなさい」(エレミヤ 7:12)。

上掲の場合も、名は信心を表わします。結局、信仰の真理にかんする教義を意味します。エホバのみ名を知り口づさむだけの場合、その人の中にエホバは住まわれないことは、だれにも明らかです。それに該当する概念、該当する認識、該当する信仰がない名前だけの場合、それは単なる単語に過ぎません。したがって、名前とは本体であり、本体を知ることであるのが分かります。

⑦ モーセの書には、次のようにあります。

「そのころエホバは、レビ族を別にされた。・・・それはエホバに仕え、エホバのみ名において、祝福させるためであった」(申命記 10:8)。

「エホバのみ名において祝福する」とは、前述したように、名前ではなく、エホバのみ名にかんする事柄です。エレミヤ書には、次のようにあります。

「エホバを呼ぶときのエホバのみ名は、エホバはわれらの正義である」(エレミヤ 23:6)。

上掲の「み名」とは、主の本体である正義を表わし、それがここでのテーマです。イザヤ書には、次のようにあります。

「エホバは、胎児のときからわたしを召し、わたしの母の胎を出た時から、わが(主の)名として挙げられた」(イザヤ 49:1)。

上掲文のテーマは主です。「主の名として挙げられた」とは、主の本体を教えられたということです。

⑧ 「名前」が本体 を意味することについては、ヨハネの黙示録に明らかに示されています。

「サルデスには、その衣を汚さなかった人が少数いる。かれらは、それに相応しい者として、白い衣をまとって、わたしといっしょに歩く。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。わたしは、その名を〈いのち〉の書から消すことはしない。またわたしの父の前、天使たちの前で、わたしはその名を言いあらわす。・・・勝利を得る者には、・・・その上に、神のみ名と、わたしの神の都の名、すなわち、天界からわたしの神のみ力で下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを記す」(黙示録 3:4,5,12)。

上掲でも、「名」は名前ではなく、本体をあらわすことは明らかです。「〈いのち〉の書に書かれた名」とは、それ以外にはありません。同じく、

「父のみ前でその名を言いあらわす」や、「その上に、神のみ名と、都の名、新しい名とを記す」もそうです。また〈いのち〉の書と天界に、記されていると言われている名前もそうです(黙示録 13:8; 17:8ルカ 10:20)。

⑨ 文字上の意味で「名」は、天界では、一人が他の一人と識別される本体を示すしかありません。 だれにも明白なように、地上で各人の名前は、他者の概念にたいして、本体を浮き彫りにします。それによって他から識別されるわけです。来世では、その概念は残りますが、名前は消滅します。それが天使になると、なおさらです。したがって、「名」の内的意味は、本体であり、本体を認知することです。同じく、黙示録にあります。

「白馬に乗っている方の頭上には、多くの冠があって、その方以外にはだれも知らない名が記されていた。かれは血染めの衣を身にまとい、その名は『神の〈みことば〉』と呼ばれた」(黙示録 19:12,13)。

ここでも、「名」は神の〈みことば〉です。白馬に乗った方の本体が、明確な言葉で示されています。

⑩ エホバのみ名とは、その本体を知り認めることです。すなわち愛の善と信仰の真理のすべてです。主の次の〈みことば〉から明らかです。

「正義なる父よ、・・・わたしはあなたを知り、またかれらも、あなたがわたしをお遣わしになったことを知っています。わたしはかれらにみ名を知らせ、これからも知らせます。それはあなたがわたしを愛して下さったその愛が、かれらのうちにあり、またわたしも、かれらの中にいるためです」(ヨハネ 17:25,26)。

⑪ 「神のみ名」すなわち主のみ名とは、愛と仁愛にかんする信仰の教義すべてを指します。「そのみ名を信じる」とは、それを意味します。同じくヨハネは、それについて記しています。

「かれを受けいれた人、つまりその名を信じた人々には、かれは神の子らとなる力をお与えになった」(ヨハネ 1:12)。

「わたしの名によって願うなら、わたしはそれをかなえる。もしあなたがたがわたしを愛するなら、わたしの戒めを守りなさい」(ヨハネ 14:13-15)。

「わたしの名において、父に願うなら、父はそれをあなた方にお与えになる。これを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである」(ヨハネ 15:16,17)。

「二人または三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」(マタイ 18:20)。

⑫ 「主のみ名において集まる」とは、愛と仁愛にかんする信仰の教義の中にある人たち、つまり愛と仁愛の中にある人を指します。同じく、

「あなたがたはわたしの名のため、すべての民族に憎まれる」(マタイ 10:22; 24:9,10マルコ 13:13)。

上掲では、「わたしの名のために」とあるのは、教義のためであることは明らかです。名前それ自身は価値がありませんが、名前が意味する事柄に価値があります。それは仁愛と信仰にかんする事柄です。マタイ福音書にある次の〈みことば〉から明らかです。

「わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって、多くの力あるわざを行ったではありませんか、と言うであろう。そのとき、わたしはかれらにこう言う。わたしは、あなたがたを知らない。不法を働く人たちは、わたしから去りなさい、と」(マタイ 7:22,23)。

以上から、ユダヤ人がエホバのみ名を信じ、キリスト教徒が主のみ名を信じるように、名前に信心の価値を置くことで、他の人より相応しくなるというわけではないことが分かります。名前には効力がありません。むしろ主が命じられたことを行うことで、それが「わたしの名を信じる」ということです。

主のみ名にしか救いはありませんし、相互愛しか教義はありません。それが信仰の本当の教義です。したがって、主以外にはないことです。あらゆる愛は、主おひとりから来るもので、それに由来する信仰もそうです。

  
/ 10837  
  

Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.